秘封倶楽部とダーウィンの悪魔



「この悪魔を発見したのは、イギリスの博物学者チャールズ・ロバート・ダーウィンだった。だから、これを“ダーウィンの悪魔”と呼ぶことにしよう」

          ――――アイザック・アシモフ著『現代悪魔学』より










1.

 私は蓮子と一緒に、中華料理のフルコースに舌鼓を打っていた。
 大学の近くに新しくできた中華料理店にやってきたのだ。もちろん普段からこんな贅沢をしているわけではない。いつもは二人で食事をするにも、学食やら適当なファミレスなどで済ませている。
 こんなに奮発しているのは、この新しいお店が気になっていたこともそうだけど、秘封倶楽部が記念すべき活動をしたお祝いという意味もあるからだった。
 満足感にあふれた気分で、ウニとフカヒレのスープを味わう。スプーンが金属でもプラスチックでもなく、分厚い陶器で出来ていたので使いにくかったが、これも中華風ということなんだろう。
 次に運ばれてきたのがエビのチリソース煮。テーブルに皿が置かれると同時に、甘辛く香ばしい匂いが鼻をくすぐってくる。赤く鮮やかに彩られたエビを箸でつまみ上げ、口へと運んで噛み締めた。
 最初にチリソースの甘辛さが口中いっぱいに広がるのを味わい、エビを歯でぷつりと噛み切る食感を楽しみ、そしてその後でごくわずかに漂う潮の香りに満足する。
 さほど値段の張る店ではないのに、想像を遥かに超えて美味しい。私はすっかり顔をほころばせていた。
 だというのに、蓮子の様子がさえないのが気になる。
 最初は物珍しそうな顔をしながらもバクバク食べていたのに、その表情が徐々に難しいものになってきているのだ。

「どうしたのよ。嫌いな味だった?」
「ん……いや、味はおいしいよ。おいしいんだけどね」

 どうにも歯切れが悪い。
 そうしているうちにエビも食べ終わり、次に出てきたのはお待ちかねのペキンダックだ。
 丸々とした肉をイメージしていたけど、出てきたのは小麦粉の皮に巻かれて小さく分けられたものだった。どうやらこれが調理済みということらしい。
 さてこれはどんな味わいなのだろうかと考えながら箸を伸ばすが、ふと対面に座る親友の様子に手が止まった。
 見れば、彼女の取り皿にはさっきのエビがまだ半分も残っている。

「ほんとにどうしたのよ、蓮子」
「いや……なんていうかさ。やっぱりだめだわ、これ」
「口に合わなかった?」
「口には合うんだけど、心に合わないわ。だってこれ、本物の中華料理じゃないでしょ」

 そう言って蓮子は、かけていた透明のバイザーを外し、手袋も脱ぎ始める。
 一瞬、一人で勝手に食べ続けたいとの誘惑に惑わされかけたが、さすがにそんなわけにもいかない。
 私は未練がましくペキンダックを一口かじってそのカリカリとした香ばしさを味わい、それからようやく自分のかぶっていたバイザーを取った。
 その途端、テーブルの上のペキンダックは姿を消した。そこには半透明の柔らかい合成食材があるだけ。食欲をそそる色合いも、豊かな香りもなにもない。

「メリーのオススメだから来てみたけど……キツネに化かされているみたいで、どうも楽しめないわ」
「化かされているとは失礼ね。れっきとしたバーチャル中華料理よ」

 ――バーチャル料理。それはつい最近に実用化された、食事を楽しむ新しい方法だ。
 合成食品には元々、色もなければ味もなく、匂いも食感もないので不味くて仕方がない。
 それなのに私達が合成食品を満足して食べられるのは、着色料・調味料・香料・凝固剤などをフル動員して、いかにもそれっぽくごまかしているからだ。
 もちろんそれら添加物にはすべてコストがかかるし、いかにも食べ物らしく見せかけるには芸術的な工夫が必要で、コストはさらにかさむ。
 日常の食卓に並ぶ料理であれば、量産効果で安価に抑えられる。だが普段はあまり食べないもの――たとえば中華のフルコース――などでは、値段が格段に跳ね上がってしまう。
 そこで生まれたのがバーチャル料理だ。
 直接口にするのは無添加の合成食材。そのままだと無味無臭のゼリーみたいなもので、食べても面白くもなんともない。
 だけどそれはビューバイザーを使うことで一変する。外から見れば透明な、顔の上半分を覆うバイザーは、内側で合成食材にかぶせるようにしてCGを映し出す。つまりそれの着用者には、ただの合成ゼリーがきちんとした料理に見えるのだ。
 もちろん見た目だけでは意味がないので、バイザーの耳当てにあたる部分からは味覚・嗅覚の神経に割り込む信号を出し、匂いや味を疑似体験させる。同時にあごの筋肉と神経にも信号を送って触覚を再現するので、歯ごたえもばっちりだ。
 箸やフォークなどで取ったときの感覚については、負荷や衝撃を機械的に再現する薄い手袋をはめることによってフォローする。
 これら工夫によって、ただの味のないゼリーが最高級の食事へと生まれ変わる。これがバーチャル料理と呼ばれるものだ。
 そのおかげで私達のような貧乏学生でも、中華料理のフルコースを食べることができる。
 だというのに蓮子は……それがどうにも気に食わないらしい。





「だいたいバーチャルってのがどうも嫌なのよね」

 せっかくの中華料理を途中で切り上げてしまったのだが、蓮子はまだぶつぶつと文句を言っていた。
 一方私は、よく考えるとバーチャル料理は持ち帰り不能だということに気付いてショックを受けながらも、さっき食べた素敵なペキンダックさん(バーチャル)のためにも反論を開始した。

「あのねぇ蓮子。バーチャルは劣化コピーって意味じゃないのよ」
「なんだったっけ? 仮想、だった?」
「その言葉だと語弊があるわ。より正確に言うなら『名目は異なるが、実質は同じ』という意味よ」
「実質は同じ……ね」

 蓮子は帽子を取って人差し指でくるくるっと回し、また頭の上に戻す。まるで奇術師みたいな動きだった。

「なんかそれでもごまかされている気がするわ」
「過程は違っても結果は同じなら、それは区別すべきじゃないわ。夢と現実が同じものであるようにね」
「いや、だからそういう説明だとますます信じられなくなるんだけど。相対性精神学がそうだとしても、どうも納得がいかないのよ」

 その時点から納得してもらえないというのはとても困る。
 遥か昔の哲学者は「もしかしてこの世界は、すべて自分の夢ではないか?」なんて悩んだらしいけど、現代の常識で考えれば実に馬鹿馬鹿しい。区別がつかないならどっちでも一緒じゃない。
 だというのに蓮子は食い下がってくる。

「メリーも合成の筍じゃなくて、天然筍を食べてみたいとは思わない?」
「う、いや、そりゃ興味はあるわよ。でも味は一緒でしょう」
「そんなことない。きっと違うはずよ。味だけじゃなくて、もっと本質的なものがね」

 そう言って蓮子は空を見上げた。日はすでに沈み、徐々に深みを増す夜空のあちこちで星が光り始めている。

「19時9分。この冥い街では、空以外のなにもかもが偽物で出来ているわ。人工素材のジャングルに埋もれて、息が詰まりそう」
「都会の喧騒が嫌ならどこか遠くに……って、そういえば蓮子。食事のときに決めようって言ってたこと、全然話してなかったわ」
「え? なんだっけ?」
「ほら。長期休講の予定よ」

 もうすぐ大学は一ヶ月近い休みに入る。この長い空き時間を有意義に生かすためにはどうすべきかと、前々から言っていたのだ。

「そうそう。それなんだけど、食事のときにいいこと思いついたのよ」
「なによ、いいことって」
「幻想郷にロングステイっていうのは、どう?」

 蓮子は人差し指を立て、いたずらっぽい笑みを浮かべた。

「幻想郷……って、あの?」
「そう。あの幻想郷」

 聞き間違いかと思って問い返したが、自信満々の返答が返ってきた。



 幻想郷。それは私がずっと夢だと思っていた世界だった。
 しばらく前に私は、夢の中で拾った物が目覚めてからも枕元にあるという怪現象に悩まされていた。
 てっきりそれは夢が具現化したものだったと考えていたのだけど、蓮子はそれを否定した。私が寝ている間に結界を越え、実際に別世界に旅していると主張したのだ。
 そして彼女の言ったとおりに結界の裂け目をくぐると、そこには夢で見たのと同じ世界があった。
 山深くにある寂れた神社の境内へと出た私達は、そこで珍妙な格好をした巫女と出会い、その世界が『幻想郷』と呼ばれているということを知ったのだ。



「――ロングステイってことは、もしかして幻想郷だけに一ヶ月も費やすの?」
「そうよ。メリーの好きな筍だって食べ放題よ」
「筍はいいんだけど……一ヶ月ねぇ」

 電気も水道もなさそうなところにそれほど長く居たいなんて。蓮子はよっぽど幻想郷が気になるのかしら。

「まあ、蓮子が行きたいっていうならそれでもいいけど」
「ほんと? よかったぁ」
「妖怪やら幽霊やらがはっきりと存在するところらしいし、たしかに腰をすえて調べたくなる気持ちもわかるけどね」
「それだけじゃないわよ。あそこには本来の人間の姿があるわ」
「本来の人間の姿?」

 オウム返しに聞く。たしかに幻想郷は人間もいる世界だが、本来の姿とはどういうことなんだろう。
 ……ああそうか、日本の昔の姿に似ているということか。

「なるほど、この国の原風景ってことね。確かにそれは、ここの生まれじゃない私にはわかりにくい感覚だわ」
「違う違う。日本だけに限った話じゃなくて、もっと人類全体の意味合いでのことよ。そういう本物があると思うの」

 あっさりと否定される。ひどくあやふやな言い方だったけど、私はその言葉になにか不吉な物を感じた。
 だって蓮子の言い方だと、まるで私達のいるこの世界には……本来の人間がいないような意味にとれてしまうじゃないか。










2.

 それから数日後。待ちに待った大学の休みに入り、私と蓮子は田舎の寂れた駅に降り立った。
 ここからしばらく山道を登ると、博麗神社がある。幻想郷に繋がる結界の破れの中で、そこにあるものがもっとも安定しているのだ。
 神社までは歩いて二時間ちょっと。着替えの詰まったバッグを持った女の子には、ちょっとばかり疲れる行程だ。
 だがそこに蓮子は追い討ちをかけるように、「はいこれメリーの分」とやけに重たいリュックサックを手渡してきた。
 持ってみると砂袋のような感触がする。なんだこれ。嫌がらせか。

「……一応聞くけど、これなに?」
「滞在費よ」
「たいざいひぃ?」
「メリーったらこういうところで鈍いんだから。さあほら、まずは歩く! 行きながら話すから」

 蓮子にうながされて歩き始めた。リュックの重みがずしりと肩にかかる。『人生とは重き荷を背負いて道を行くが如し』という言葉がふと頭に浮かんだ。
 滞在費ってハイパーインフレでもあるまいし、なんでリュック一杯の重みを背負わなくちゃいけないんだか。どれだけ札束を持って行く気なんだ。
 ……ん? まてよ。これから行くところは幻想郷だった、すると札束なんて持って行っても…… 

「……そっか。向こうじゃこっちのお金が使えるって保証がないものね」
「そうそう。今頃気づくなんて、相変わらずのん気ね」
「じゃあこれって貴金属? それにしては大きいみたいだけど」
「残念。金や銀を用意するのは手間も手数料もかかるのでやめたの。だから他の物で代用しました」
「他の物って?」
「スクロースよ」
「なにそれ」
「化学式C12H22O11。ま、平たく言えば砂糖ね。化学科の知り合いが大量に余らしていたから、ちょっと分けてもらったの」

 この砂袋のような感触はそれか……。

「幻想郷については、前に行ったときにあの巫女からさらっと聞いたでしょ。そんなに広くない山奥が、結界で隔絶された世界だって」
「ええ、たしかにそう言ってたけど、なんでそれで砂糖なの?」
「ちょっと調べてみたんだけどね。天然の砂糖って、熱帯にしか生えないサトウキビって植物から取るんだって」
「なるほど。そう聞くとこの重みも、砂金を背負ってるような気持ちになれるわね」

 幻想郷の食料はすべて自給自足の天然素材のはずなので、砂糖が手に入るはずがない。すると甘味に飢えた向こうの住人には、この背中の砂袋が高く売れるというわけだ。

「昔の日本人は、柿より甘い物を食べられる人はほとんどいなかったらしいわ。幻想郷でもそれは同じはずよ」
「まあ、合成柿しか食べたことのない私達には、昔の柿の味なんてわからないけどね」
「それも向こうに行けばわかるわ」

 私と同じく重い荷物を背負っているというのに、蓮子の足取りは軽い。
 こちらは何度も転びそうになりながらも、ようやくついていってるというのに。

「ちょっと蓮子、速いってば。もっとペース落としてよ」
「あら。メリーったら運動不足なんじゃないの?」
「この悪路が悪いのよ。舗装がもうボロボロじゃない」

 博麗神社に続く道は途中で整備が打ち切られたのか、風雨で朽ちるがままにまかされていた。あちこちが草に食い破られ、めくれ上がった舗装に足をとられるたびに疲れが増してくる。
 蓮子は崩壊寸前の道路をぐるりと見回し、軽くため息をついた。

「こういうのを見てると、エントロピー増加の法則をしみじみと実感するわね」
「なによそれ」
「知らないのメリー? まあ簡単に言えば、全ての物は最終的には秩序から無秩序に向かうってことよ」

 ああ、それなら確かに習ったような気がする。
 蓮子は「本当は熱力学だけの話だけど」と前置きして話を続けた。

「私はこれ、すべてに通用する法則だと思うわ。形あるものはいつかは壊れ、複雑なものは単純になり、すべては整然から乱雑になる」
「ふうん。蓮子の部屋が乱雑なのも、エントロピーのせいかしら」
「……ともかく、この文明社会も刻一刻と崩壊に向かってるわ。政府は『選ばれた人間によって精神的にも豊かな社会を実現した』なんて言ってるけど気休めよ。滅亡へとひた走る文明の寿命を、多少延ばした程度だわ」
「あら、未来予知? 蓮子はいつの間に専攻を心理歴史学に変えたのかしら」

 そう茶化してみる。どうにも蓮子は、現代の技術文明が相当気に入らないらしい。
 しかしそれならエントロピーなどと難しいことを言わなくてもいいと思う。この国に古くから伝わる『盛者必衰の理』の一言で済むじゃないか。まあでも、そこは理系の意地かもしれない。
 そう考えていると、ふと蓮子に対する反論が思いついた。
 私は悪戯っぽく、ことさらからかうような口調で問いかけてみる。

「ねえ蓮子、やっぱりエントロピーの法則は熱力学にしか適用できないものだと思うわよ」
「どうしてよ」
「だって生物を御覧なさいな。単純なバクテリアから始まった生命は、何十億年もかけて複雑な人間まで進化してきてるじゃない。これはエントロピーの法則に当てはまってないじゃない」

 一本取ったとばかりに彼女の顔を覗き込む。だが蓮子はまるで、聞き飽きた冗談でも言われたかのような顔で答えてきた。

「あー、それね。それは錯覚よ。ダーウィンの悪魔と言ってね」










4.

 そして私達は結界の裂け目をくぐり、幻想郷へとやってきた。
 向こうの世界では倒壊寸前だった博麗神社が、こちらでは木の香りも新しい立派な建物になっている。ボロボロだった舗装道もなくなり、手入れの行き届いた石畳へと変化していた。

「なに、あんたたち。また来たの」

 そう声をかけられたので振り返る。鳥居の根元に寄りかかって座り、湯呑みを片手にした巫女がそこにいた。
 彼女の名前は博麗霊夢。この神社の巫女で、幻想郷の結界の管理者だという。
 前に私と蓮子が連れ立って幻想郷に来たときも、最初に彼女と会ったのだ。

「こんにちは、霊夢さん。今回はこっちに長く泊まりに来たんですが」

 どこか気だるそうな霊夢とは正反対に、蓮子は最高にご機嫌だった。尻尾があったらちぎれんばかりに振っているだろう。

「泊まるぅ? ……まったく。遊び半分に結界越えてきたのは、あんたたちが初めてよ」
「いいえ! これは遊びじゃなくて、秘封倶楽部の崇高なる活動でむぐっ!」
「はいはい蓮子、演説はいいから」

 さっきから興奮しっぱなしの親友の口を押さえる。さすがに迷惑な顔をされるかとも思ったけど、霊夢はとくにそんな様子も見せず、のん気そうな表情を浮かべていた。

「ま、せっかく来たんだからお茶ぐらいはご馳走するわ。上がって」

 霊夢に案内されて博麗神社の中へと入る。表から見るときちんとした神社の本殿だけど、裏手に回ると玄関や縁側があり、居住スペースと一体化しているようだった。御神体の安置場所はどうなっているのだろうか。
 そして私達は畳敷きの部屋に通された。茶室に良く似ていたが、ちゃぶ台やタンスや戸棚などが置かれていて生活感がある。

「――で、前は日帰りだったから、今度は泊りがけの予定?」

 お茶を出しながら、霊夢がそう聞いてくる。

「ええ。蓮子と二人で一ヶ月ほど。霊夢さんにはご迷惑かもしれませんが……」
「いやまあ別にいいわよ。メリーと蓮子、だったっけ?」
「あ、はい」

 霊夢は戸棚から油紙に包まれた煎餅を取り出してちゃぶ台に置き、自分も一枚バリバリとかじり始める。そのフランクな態度に私は拍子抜けしてしまった。
 蓮子は気楽な感じで遊びに行けると思っていたようだが、正直私はそっけなく追い払われるか、あるいは面倒な騒ぎになるんじゃないかと危惧していたのだ。
 結界を越えたことは今までに何度かあったけど、その結界の管理者と出会った場合は、だいたいにおいて敵対的な態度をとられるのが普通だったのだ。
 まあ、向こうの気持ちになって考えてみれば当然だと思う。立ち入りを制限したいから結界を張っているというのに、それをズカズカと踏み越えられては楽しい気分になれるわけがない。
 だが、目の前にいるこの結界の管理者は、やけに落ち着いた態度で私達を迎えていた。もっと緊張感とかそういうのがなくてもいいのだろうか。

「ちょっとメリー、これ食べてみなさいよ。すっごい硬いから!」

 蓮子はさっそく煎餅に派手な音を立ててかじりついていた。あんたはそろそろ落ち着きを取り戻せ。

「ところで長く滞在って、どこで寝泊りする気よ」

 霊夢がそう聞いてくる。
 前に幻想郷に来たときは「夜には人食いが出るわよ」と脅されたこともあって日が暮れる頃に帰ったけれども、今回はきちんとしたベースを設置しなきゃいけないだろう。

「えーと、ホテル……じゃなくて宿屋? は、どこでしょうか」
「幻想郷で宿を商売にしてる人はいないわよ。誰かから寝場所を借りるしかないわね」
「じゃあ、ここの神社に泊まらせてもらえない!?」

 口の周りに煎餅の欠片をつけた親友がそう叫んだ。
 私は宿泊施設がないとは思ってもいなかったけれども、どうやら蓮子にとっては予想済みだったらしい。

「んー、まあいいけど。でもまさか、タダで済ませようとは考えてないわよね」
「それはもちろん。ほらメリー、アレを出しなさい」

 やけに偉そうな蓮子にうながされ、リュックから砂糖袋を取り出す。
 蓮子も背負っていた砂糖袋を下ろし、得意げにどどんと並べた。

「どう? これだけ砂糖があれば、一財産でしょ。この神社も建て直せちゃうんじゃない」

 霊夢は一瞬きょとんとした顔を浮かべたが、すぐにくっくっと笑い始めた。

「ちょっと……どこで勘違いしたんだか知らないけど、砂糖にそこまでの価値はないわよ」
「へっ!? な、なんで? ここじゃあ、砂糖は収穫できないはずでしょ?」
「あーなるほど。そういう発想だったのね」

 霊夢は腕を組んでうなずく。なんだかその仕草は蓮子を連想させる。

「残念ながら幻想郷は完全な自給自足じゃないのよ。外から物資を調達している妖怪がいてね。砂糖も栽培場所は知らないけど、どこかから手に入るのよ」
「う、じゃ、じゃあ、これってまったく無価値? 重かったのに……」
「いいえ。高級品であることは確かだから安心しなさい。そうね、この量なら……まあ一ヶ月の宿代としては妥当かな」

 その言葉を聞いてほっと胸をなでおろした。
 あれほど肩と腰を痛めて持ってきたものが無価値だったら、今頃蓮子を石の上に正座させて膝の上に砂糖袋を積んでいたところだ。

「しっかしアンタたち、準備がいいわね。ちょっと前にこっちに移住してきた巫女なんか、見たことない紙幣振り回して『お金が使えない、お金が使えない』って騒いでたのに」
「え? 移住してきた人なんているの?」
「そうよ。こっちに迷い込んでそのまま住み着いちゃう人もいるけど、計画的に引っ越してきた神社もあるわよ」

 それは意外だった。てっきり完全に隔絶された環境だと思い込んでいたのに、移住してきた人までいるとは。
 霊夢は砂糖をひとつまみ舐めてわずかに思案顔を浮かべると、ぽつりと呟いた。

「まあ、どっちかと言えば、塩の方がよかったんだけどね」
「どうして? 砂糖の方が需要あるんじゃないの」

 そう聞くと、いかにも当然のことのように答えが返ってくる。

「砂糖がなくても人間生きていけるけど、塩がなかったら死ぬじゃない」
「そうなの?」
「そうよ。木葉草根、味噌塩を交えて食わねば大事に至るよし……とも言うわ。どんなに食べ物が不足してても、塩気だけは欠かせないのよ」

 それほど歳が変わらないというのに、妙に生活苦がにじみ出ている言葉だった。
 この幻想郷は予想と違って完全に自給自足ではなかったようだけど、それでもやはり食料が欠乏したりすることもあるのだろうか。

「さて……じゃあ最初に聞くのは今夜の夕餉の希望かな。なにか食べたい物はある?」
「筍!」

 そう勢いよく叫んだのはもちろん私……じゃなくて蓮子だった。なんで私を指差しながら叫んでいるんだ。

「蓮根」

 対抗してこちらも蓮子を指しながらそう言ってやる。不満そうな顔で睨み返された。
 霊夢はそんな私達を見て苦笑を浮かべる。

「はいはい、わかりました。さて、せっかく砂糖が使えるんだし、鶏は誰か分けてくれそうな人いたかなあ……」

 言いながら霊夢は障子を開けて、縁側から直接外へと出かける。
 気がつけばもう日は傾き、空が赤く染まり始めていた。










5.

「さて、というわけで筑前煮を作ってみました」

 ちゃぶ台に料理の皿が置かれると、私と蓮子の口から「おおー」という感嘆の声が漏れた。
 筑前煮という料理は初めて聞いたけども、見ただけでその凄さがわかる。
 器の中に入れられているのは、ごろごろとした肉と野菜の塊。濃いグレーをした四角いものはこんにゃくで、細長いのはゴボウだろう。表裏が濃淡ツートンカラーになっているのはたぶん椎茸。そこに鮮やかなオレンジ色をしたニンジンと、緑色のさやいんげんが彩りを添えている。
 さらにあの穴が空いているのは、蓮子の名前に似ているということで大笑いしたこともあるレンコンだ。
 そして、そして、あの白っぽいのはまさに…………筍。
 幻想郷の筍だから、間違いなく天然物だろう。今まで合成筍しか食べたことがなかったが、果たして天然筍はどれほど芳醇な味わいがあるのか、想像しただけでも……

「メリー、よだれ。よだれ」
「バ、バカね。冗談言わないでよ」

 蓮子の声に思わず口元を拭ってしまうが、さすがにそこまで醜態は晒していない。
 とはいえ、そのくらい驚いてしまっても仕方の無いことだった。色とりどりの食材が無造作なまでに詰め込まれた様はそれだけでも贅沢なものだったが、しかもそのどれもが天然物だというのだ。

「な、なによ。そんなに息を詰めて見つめられても困るんだけど。普通の料理なのに」
「いや、幻想郷では普通かもしれないけど」
「私達の世界では、ねぇ……」
「こんな程度のものが珍しいわけ? 外の世界は物が豊かで食料に困ることはないって聞いてるんだけど」
「たしかに食料は豊富だけど、ねぇ」
「ねぇ」

 蓮子と目配せをする。
 もう私達の世界では天然物の食材など幻想と化していて、あるのは合成食料だけと言っても理解してもらえないだろう。
 この目の前にあるような複雑な色と形を持った食べ物なんて、合成品だとひどく高価でなかなか手が出ない。

「まあいいわ。じゃあいただきましょうか」

 霊夢にそう促されて、私達は「いただきます」と手を合わせてから箸を取る。
 さっそく筍をつまんで、口へと運び、ゆっくりと咀嚼した。
 ほんのりとした筍の匂いが鼻腔にまで立ち上り、舌には出汁の効いた味わいが一杯に広がる。

「んー! 美味しい!」

 ……と、これは蓮子の声だ。
 私の方はといえば、少し拍子抜けした気分を味わっていた。
 たしかに美味しい。味も香りも舌触りも一級品だ。でも逆に言えば『合成筍の』一級品とさほど変わらないレベルなのだ。
 今まで私が食べた筍の中ではトップクラスの味だというのは間違いない。だけど段違いに美味しいというほどでもなく、情景や雰囲気で味が底上げされているんじゃないの? というような気までする。
 なんというか……天然物ならもっとこう、想像を絶するような味ではないかと期待していたので、どこかがっかりした気分になってしまった。

「どうしたのメリー。考え込んじゃって」
「口に合わなかった?」

 蓮子と霊夢がこちらを覗き込んでくる。私は慌ててごまかした。

「ん、ううん。ちょっと感動してただけ。この筍、すっごく美味しくてね」
「だよねー。私はこの、鶏肉の味がね、なんていうんだろ。美味しいを感じて」
「蓮子はお肉が気に入ったんだ。それよりもこのレンコンの、こりこりとした感触が……美味しくてね
「メリーはほんとに筍風の物が好きね。他にもこのさやいんげんの味と香り、言うなればすごい美味しくてね」
「……とりあえず褒めてもらえるのは嬉しいけど、あんたたちに料理評論家の才能はないわ」

 美味しいしか感想の出てこない私達を、霊夢は呆れたように見つめてくる。
 悔しいので蓮子と二人して「この芳醇なハーモニーが……」とか「舌の上で蕩けるまろやかさが……」などと言い合っていたが、すぐに飽きて普通に食べ始めた。
 そうして出されたメニューをすべて空にして、食後に出されたお茶を飲む。
 さて、明日はどうしようかと考えていると、こっちの心を読んだかのように霊夢から話しかけられた。

「で、あんたたち。明日からどうするの?」
「まずは妖怪というのを見てみたいんですが」

 蓮子の言葉は思いっきり単刀直入だった。彼女ほど慎み深さと無縁な生き方をしている娘もいない。
 でもたしかに、その気持ちはよくわかった。現代の日本は霊的研究が進んでいると謳っていても、それは概念的なものだけで、動物園でパンダを見るように幽霊や妖怪を見物することはできない。
 しかしこの幻想郷では、幽霊も妖怪もしっかりと社会システムの一環に組み込まれているようなのだ。それを見学したくないという方が嘘だろう。

「妖怪ねぇ。まあそれなら人里で見るのが安全かな。歩いてでも日帰りできるしね」
「人里に妖怪が? 人喰いじゃないんですか?」
「もちろん食べるけど、人里じゃ暴れるなって決まりがあるのよ。夜道を歩いたり山奥に行かない限り、妖怪に食われる心配はそれほどないわ」

 霊夢の言葉に私はほっと胸を撫で下ろした。その後で付け加えるようにぽつりと「あくまでそれほど、ね」と呟かれたのがちょっと不安だが、蓮子はそんなことを気にした様子もなく矢継ぎ早に質問を繰り出す。

「そういえばさっき、外の世界から引っ越して来た神社があるって言ってましたけど、どこにあるんですか?」
「あー、守矢の神社ね。あそこは妖怪の山の頂上にあるからそう簡単にはいけないわよ。なんなら案内呼ぶけど……」
「あ、いや、そこまでしてもらわなくてもいいんですが。でもたしかに会ってみたいですね」
「あそこの巫女はよく人里に降りてくるし、もしかしたら会うかもしれないわね」

 霊夢と語り合う蓮子の姿を見ながら、私はわずかな違和感を覚えていた。
 幻想郷に来たのはロングステイ、つまりは休暇のためという話だった。なのに蓮子の目は研究をするときのように輝いている。
 やっぱりそれが本音だったのだろうか。結界を越えた調査は禁止されているので、論文を発表することもできないが、知的好奇心に負けて非公開の資料を纏めようとしているとか。
 しかしそれなら、私に対してまで建前を使う必要はない。秘封倶楽部はそもそも禁止されている結界越えをするためのサークルなのだから。
 じゃあやっぱり――
 ふと、もやもやとしたものが胸中から湧き上がってきたが、あまりに楽しそうな蓮子の姿が目に入ると、不安の雲はすぐに散って消えてしまった。










6.

 次の日、私達は博麗神社から出発して山道を下っていた。
 霊夢は「飛べばすぐよ」なんて言ってたけど、当然そんなことができるはずもなく、けっこうな距離を歩かされていた。
 おまけに私達の世界では考えられないくらい鬱蒼と森が茂っており、道も曲がりくねっていて遠回りをさせられている気分になる。

「ちょっと蓮子……だからペース速いって」
「ごめんごめん。しかし、凄い森ね。今にでも妖怪が飛び出してきそう」
「霊夢さんは『妖怪に襲われたら私の名前を出しなさい』って言ってたけど、本当に大丈夫かしら」
「そんなに顔広いようには見えなかったけど、神職だからお守りにはなりそうね」

 舗装されておらず、木の根ででこぼこになった道はひどく歩きにくい。ただでさえ運動が苦手な私は、またもや息を切らせてへたりこんだ。

「あー、もうダメ。ちょっと休憩」

 そう言って、たまたまあった倒木にペタンと腰を下ろす。
 蓮子もやれやれといった顔を浮かべてその隣に座ったが、ふと何かに気づいたように首を巡らせた。
「ねえメリー。なんか物音がしなかった?」
「やめてよ、こんなときに脅かすなんて」
「まさか妖怪じゃないだろうけど、これだけ山が深かったら熊とか出そうだし……ちょっと見てくるね」
「え、危ないからやめなさい……ってちょっと蓮子!」

 止める暇もなく、あっというまに茂みの中に姿を消してしまった。
 しばらく待ってみたが、なかなか帰ってこない。
 まさか本当に熊か妖怪が出たのだろうか。急に不安になって立ち上がり、蓮子が入ったあたりの茂みをかきわけて奥へと進む。
 ほどなくして茂みは途絶え、突然私の目の前に小さな草原が広がる。そして蓮子はその片隅で、見知らぬ少女と語り合っていた。

「ちょっと蓮子! なにやってんのよ!」
「あ、メリー。ほら、こっちこっち」

 そうにこやかに手を振ってくるので、しかたないと嘆息一つ漏らしてから、蓮子の方へと歩いていく。
 よく見ると蓮子と会話していた少女は、霊夢のように腋の開いた変な巫女服を着ていた。ただしカラーリングは青を主体にしている。
 近づくと、蓮子は私に向かって手の平を差し出した。

「ほら、メリーもこれ、食べてごらん」
「なにこれ?」
「ノイチゴ、だって」

 彼女の手の上には、小さな果実がいくつか載っている。
 でもイチゴと言っていたが、普段見るイチゴよりもずっと小さく、色も黄色から赤黒い物までまちまちだ。
 おそるおそる赤黒い物を一つを取って口に運ぶ。
 するとかすかに甘く、トロリとした味わいが口の中で広がった。果物というよりは、まるで珍しいカクテルのような味だ。

「あ、おいしい」

 そう呟き、次は黄色い物を食べてみる。今度はひどく酸っぱく、思わず目をつぶってしまった。しかし一瞬の酸味が過ぎると、爽やかな後味がゆっくりと立ち上ってくる。
 私達が普段食べているものとは比べ物にならないほど、複雑な味わいだった。

「ん。美味しいわ。でもこれ、高いんじゃないの? なんか悪いような」
「いやそれがね、なんとここに生えているものなのよ」

 そう言って蓮子はニヤリと笑い、辺りをぐるりと指す。

「栽培してるってこと?」
「いいえ、自生よ。勝手に生えてるってことよ」
「えっ?」

 その言葉に思わず驚きの声を上げてしまう。
 人の手が加わっていないというのに、こんなにもきちんとした食べ物が勝手に出来るなんて、すぐには信じられなかった。

「彼女がここでノイチゴを集めているって言うんで、ちょっと手伝っていたのよ」
「東風谷早苗といいます。すみません、御友人をほったらかしにさせてしまって」

 そう言って、手に籠を持ち巫女服を着た少女はペコリと頭を下げる。こちらも遅れて名乗り、挨拶をした。

「だけど、こんなものが自動的に生えてくるなんてね……」

 そう呟き、さらに一つノイチゴを口に入れる。
 私の独白に、蓮子が答えた。

「ふぉほ? へひー。ほへほほはほむほふほ……」
「いや、口の中の物を飲み込んでから喋って」
「んむ、ん、む、うん。……どう、メリー? これこそが自然の姿なのよ」
「たしかに凄いわね。誰がデザインしたわけでもないのに、こんなにも複雑な色と味をした食べ物が勝手に出来る――これが自然の姿かぁ」

 感慨深くうなずく私たちに、東風谷さんはおそるおそるといった感じで尋ねてきた。

「もしかしてお二人は、外の世界から来た方々ですか?」
「ええ、そうです。と言っても昨日来たばっかりなんですが」
「わあ、やっぱりそうですか! 実は私も、数年前に外から引っ越してきたんですよ!」

 そう言って東風谷さんは目を輝かせた。
 そういえば、たしか霊夢が『外の世界から移住してきた巫女がいる』と言ってたが、彼女だったのか。

「東風谷さんが外から来た巫女だったんですか」
「早苗でいいですよ。それにしても、私より後に来た外来人の方に会うのは初めてですよ。外の世界からは諏訪湖ごと神社を持ってきたんですが、大きな混乱は起きてませんでした? なにしろ急に湖が無くなってるはずなので」
「へ? 諏訪湖?」

 数年前に日本のどこかで湖が消失したなんてニュースは聞いたこともない。

「諏訪って長野県の諏訪地方? そこに大きな湖があるなんて聞いたことないけど」
「え、いや、そんなはずはないんですが……御神渡りとかって知りません?」

 まったく耳に覚えがない。
 蓮子に視線で問いかけると、記憶の奥底からひっぱりだすような難しい顔をしながらも、ぽつりと呟いてきた。

「……たしかに昔は、諏訪に大きな湖があったというのは聞いた気がするけど」
「ですよね。ありましたよね?」
「でもそれ、大昔の話よ。京都還幸よりさらに前の話じゃない」
「え? きょうとかんこう?」
「神亀の遷都よ。日本の首都が京都に戻るよりさらに過去」
「日本の首都って……いつ東京じゃなくなったんですか?」

 呆然とした顔で聞き返される。
 私はふとあることに気づき、今度はこちらから尋ねてみた。

「あの、早苗さん。あなたが来たのってキリスト紀元で何年のことですか?」
「キリスト紀元? あ、西暦ですか――」

 そして早苗が口にした年を聞き、私達はひどく驚かされた。次に私が今の年を伝えると、彼女も目を丸くする。
 私達と早苗の時代は、恐ろしく違っていたのだ。
 歴史にはあまり詳しくないが、早苗がいたのはあの伝説のホーキングが生きていた頃とほぼ同年代だと思う。合成食料もなければ、貧困や独裁制がまだ根絶されていないほどの昔だ。

「ねえメリー。この幻想郷は過去の世界なの? それとも現在なの?」
「それは相対判断になって決められないような気もするけど……私達は正規のルートじゃなくて結界の破れ目を通ったんだから、こっちが時空を跳躍した可能性の方が高いと思うわ」

 私達にとっても驚きだったが、早苗の方がさらに衝撃は大きいだろう。なにしろ彼女から見たら私達は未来人なのだ。

「お二人はそんな未来から来たんですか! あの、その時代って、アメリカとかフランスってまだあります? 車は空を飛んでいます? ケータイはどのくらい高機能になりました?」

 興味津々といった顔で次々と尋ねてくる。気おされた私に代わって蓮子がそれに答えていき、そして早苗に向かっても幻想郷に関する質問を投げかける。
 彼女達は夢中で話し込んでいたが、しばらくすると早苗はなにか用事を思い出したように話を打ち切った。

「あ、こんなところで長話に付き合ってもらってすみません。そういえばあなた方は博麗神社に行くんですか?」
「いや、私達はそこに泊まっていてね。これから人里に行こうとしていたの」
「そうなんですか」

 ノイチゴの入った籠を肩にかけ、早苗は服装を整える。

「よければお連れしましょうか。私も向かう途中でしたし、面白いお話を聞かせてくれたお礼ということで。あなた方は空を飛べませんでしょう? 私なら一緒に運んで行けますよ」
「え、でも悪いんじゃ……」
「喜んで! メリーなんてすっかりへばってたから助かります」

 断りかけたというのに、蓮子の元気のいい声に遮られてしまった。
 どうして日本人じゃない私が遠慮の精神を発揮して、純日本人の蓮子が逆なんだろうか。

「それじゃ、私の手につかまっていて下さいね。飛んでる最中は絶対に手を離さないように」
「む……腕力に自信ないんで、ずっとぶら下がっている自信がないんだけど」
「懸垂とは違いますから大丈夫です。手をつないで歩くような気持ちで問題ないですよ。ほら」

 そういって差し出された手を、半信半疑で握ってみる。蓮子は反対側の手をつかんでいた。
 すると次の瞬間、急に体重が軽くなったような感覚がして、足から地面の感触が消えた。
 私達三人は空を飛んでいたのだ。

「さあ、もうちょっと高度を上げますよ」
「ねえこれ、下から覗かれたらどうなるの?」

 スカートを押さえながら尋ねてみる。すると早苗は「角度を考えて工夫してください」と笑顔を浮かべた。
 そして人里に向かって飛び始めたが、私は空を飛べたことへの感動よりも、下に人がいないかが気になってしょうがなかった。










7.

 そうして私達は人里へと降り立った。
 そこは木造の家が立ち並ぶ、小さな集落だった。たぶんぐるっと全部見て回っても、一日で踏破できる程度の規模だろう。
 面白いのが、来る前は昔の日本の村落そのままだろうと思っていたけれども、実際は少数だが洋風の建物もあり、洋服を着ている人もけっこう見かけることだった。霊夢が言ってたような外からの移住者がそれなりにいるのだろうか。
 早苗から「私はこれから洋菓子屋さんに行くんですが、お二人は?」と聞かれたので、蓮子と目配せで同意し、私達もお邪魔させてもらうことになった。
 しばらく歩いていくと、オープンテラスを持つ洋風の建物へとたどり着く。
 どこにも店名などが書いてないけど、ここが洋菓子屋らしい。どこからか甘くふんわりとした匂いが漂ってきた。
 おそらく人口が少ないので、看板が無くても口コミだけで周知させることができるのだろう。

「すみませーん、守矢の方から来たんですがー」

 テラスから中へと声をかける。すると杖をついたお婆さんがゆっくりと歩み出てきた。
 早苗はお婆さんに背負った籠を差し出す。

「これ、約束していたノイチゴです。すみません遅くなって」
「いやいやいや、いいんですよ。ちょうど今、タルトが焼きあがったとこだったんでねぇ」

 お婆さんは顔を皺くちゃにして微笑を浮かべた。

「おや、ところでそこのお二人さんは……」
「蓮子さんとメリーさんです。山で会いまして、ノイチゴ採るのを手伝ってもらったんですよ。外から来たばっかりだそうですよ」
「外来人さんですか、それはそれは……。よかったら、うちのタルトを味見していきませんかね」
『喜んで!』

 蓮子と声を合わせて返事する。さすがにこればっかりは遠慮するわけにはいかない。
 お婆さんはゆっくりとした足取りで店内に戻っていき、そして菓子の盛り付けられた大皿を手にしてゆっくりと出てきた。
 テラスにあるテーブルに置かれたのは、大きなアップルタルトだった。生地の上にスライスされたリンゴが載せられ、綺麗な狐色に焼きあがっている。

「さあさあさあ、どんどん食べてください」

 私達はお婆さんの厚意をありがたく頂くことにした。早苗と一緒に三人でテーブルにつき、手を合わせて「いただきます」と食べ始める。
 タルトを口に入れると、ふんわりした生地の感覚がまず舌に広がる。次は心地よい酸っぱさを感じ、最後にほのかな甘みが広がる。絶妙の味わいだった。
 砂糖をあまり使っていないせいだろうか。私達がいつも食べているお菓子とは違い、強烈で後味の悪い甘さがなく、香りのようにひかえめに染みてくる甘味を持っている。
 どんどんアップルタルトを平らげていく私達に、お婆さんは微笑みながら話し始めた。

「おいしい? それはよかった。いい歳になったもんだから、舌にどうも自信がなくなってきてねぇ。でもその様子なら、店に出しても大丈夫そうね」
「ほんとに美味しいです。こんなものが食べられるなんて幸せです」
「そーお? でもお嬢さん方は外から来たんだから、もっといいものを食べてるんじゃないの?」
「いえ、それがあの……私達がいるところでは食べ物の値段が高くて、なかなか美味しい物が手に入らないので」

 未来から来たと説明するのは面倒なので、適当にごまかす。お婆さんは「そうなの。外の世界も大変なのね」と納得してくれた。

「でもそれを抜きにしても本当に美味しかったですよ」
「ええ、私もそう思います。これなら毎日でも通いたくなります」

 私の言葉に早苗からも同意の声が上がる。
 お婆さんは微笑んでくれたのだが、ふと顔を曇らせた。

「でも近頃は足腰も弱ってきてねぇ。あまりたくさんお客さんが来ると、お待たせしちゃって悪い気もするのよ。特にお昼時はねぇ」
「この店、お婆さん一人でやっているんですか?」
「そーねぇ。しばらく前までは娘が手伝ってくれたんだけど、今ちょうどお産でねぇ。誰か短期間でも働いてくれる人がいればいいんだけど」

 頬に手を当ててそう語ってから、「あ、そうそう紅茶もあったのよ」と言ってお婆さんは立ち上がり、ゆっくりとした足取りで店の中に入っていく。
 その姿が見えなくなると、私の袖がくいくいと引っ張られた。

「なに? 蓮子」
「ねえ、あのさ。私、ここの店のお手伝いをしてみようかと思うんだけど」
「へっ? 働くってこと?」
「うん。ロングステイというよりワーキングホリデーになっちゃうけどさ。あ、もちろんメリーが嫌ならあきらめるけども」
「悪いとは言わないけど……観光できる時間が少なくなるけど、いいの?」
「うん。こういう接客業を体験してみるのも立派な観光だしね」

 蓮子は笑顔を浮かべ軽い口調で言ってきているが、その目は真剣だった。
 私は静かに息を吐き、そして微笑んだ。

「蓮子がそこまでいうならいいわよ。まあそれに、私も買い食いできる程度のお駄賃が欲しかったところだしね」
「へっ? メリーも働くっていうの?」
「当たり前でしょ。こんな楽しそうなこと、独占させておくものですか」

 ちょうどそのとき、ポットを片手にお婆さんがゆっくりと戻ってくる。
 私達のバイト応募は笑顔で歓迎され、めでたく明日から通わせてもらうことになった。










8.

 そして私達のバイト生活が始まった。
 朝は博麗神社で起き、山道を歩いて洋菓子店に出勤し、勤務後は人里をいろいろ見てまわり、日が暮れるころには博麗神社へ帰る。そんな毎日だ。
 勤務時間は忙しくなるランチタイムの4時間だけ。その間はそれなりにお客さんで賑わうが、二人で手分けすればそれほど多忙というわけでもない。
 貨幣単位が違うので給料が妥当なのかはわからなかったが、ちょっと贅沢な外食をしても余る程度の日給なので、なかなかだと思う。
 まあ困ったことと言えば一つだけ、仕事着として渡されたウエイトレス服がやたら可愛いというか……フリフリのヒラヒラがつきまくっていることだった。
 蓮子なんか衣装を見た瞬間に、生まれてきたこと自体を後悔するような表情を浮かべて赤面してしまい、傍から見ていて面白かった。まあ、私もあの短すぎるスカートとオーバーニーソックスの組み合わせには閉口させられたが。
 しかしそれにもすぐに慣れる。2週間もたった今では私達は手際よく仕事をこなし、お客さんと談笑する余裕まであった。

「ほう。すると貴女達は観光に来た外来人というわけか」
「ええ、そうです」
「しかし幻想郷も変わったものだな。まさか観光目的のお客が来るようになるとは」

 カステラをつついていたお客さんがうなずきながらそう言った。弁当箱のような変わった帽子をかぶった女性だ。

「昔はここに来るのは国を追われた者や遭難者ばかりだったんだがな。時代が変わったということかな」
「いえ、私の力が特殊すぎるからできたことですよ。他にそんなことをする人はいないとは思いますが」

 外の世界では大っぴらに言い触らすことのできない私の『眼』も、この幻想郷では血液型でも話すかのように気軽に口に出来る。
 なにしろここでは、特殊な能力持ちが多いらしいのだ。今までお客で来た中にも地震を起こせる人や、あるいは瞬間移動できる人など、とんでもない力を持った人たちがいた。

「ふうん。それはちょっと残念だな。人間側にも新しい風が欲しいところだったんだが」
「人間側?」
「ああ。ちょっと前から地底の妖怪がここに遊びに来るようになってな。妖怪から新たな交流が生まれているなら、人間からもあった方がいいなと思ってたんだよ。貴女達はここに定住する気はないのか?」

 そのとき蓮子が紅茶を持って現れた。お客さんのカップに紅い液体を注ぎつつ、こう尋ねる。

「でもお客さん。そう簡単に余所者が住み着いちゃってもいいんですか?」
「もちろんだとも。幻想郷は望む者を誰でも歓迎するぞ」

 女性は大きくうなずいて胸を張った。蓮子は「ありがとうございます。考えておきますね」と断りの社交辞令のような言葉を口にしたが、その目はやけに輝いていた。





 そして今日のバイトも終わり、私達は従業員控え室で着替えをしていた。
 ヒラヒラしたウエイトレス服を慎重に脱いでいる蓮子に声をかける。

「ねえ蓮子」
「ん、なに?」

 いつもと変わらぬ様子に、どうやって尋ねようかとわずかに迷ったが、やはり単刀直入に聞くことにした。

「もう、その気なんでしょ」
「うん」

 あっさりとした返事がくる。なにが、とも聞かれない。

「最初っから、考えていたんでしょ」
「うん」
「……そんなに、あの世界が嫌だったの?」

 そう。蓮子はこの幻想郷に移住する気なのだ。それも、当初からそれが目的だったのだ。

「イヤってわけじゃないんだけどさ。なんだかズレを感じ始めたら、それがどんどん大きくなってきてね」

 蓮子は服を脱ぐ手を止めて、椅子にもたれかかり天井を仰いだ。

「だってどこにも本物がないのよ。京都に立ち並ぶ厳かな寺院もみんな合成樹脂で作られているし、食事は懐石からコンビニのパンまで全部が合成食材。特急に乗れば窓の外には合成映像が広がる。似せた物、偽物しかないじゃない。まあ、それしか知らなければ不幸でもなかったんだろうけど……」

 ああ、そうか。
 蓮子は私をきっかけに、幻想郷を見てしまったのだ。この、本物が溢れる世界を。

「生まれた世界が嘘で塗り固められていることに、どうも耐えられなくなったのよ。絵本でしか外を知らない子供みたいな気分ね。だからこの幻想郷に来たときは嬉しかった。見るもの、触れるもの、味わうもの、なにもかもそのままで、どこにもごまかしがないのよ!」

 そう言い切ったあと、蓮子はふと不安げな表情を浮かべてこちらの顔を覗き込んだ。

「……メリーにあらかじめ言わなかったのは、ごめん」
「反対されると思ったの?」
「不安だったの。それに……もしかしたらこれでお別れに……」
「なに言ってんのよ! 蓮子ったら、私のことが嫌いなの? 離れ離れになりたいの?」

 蓮子の背中を力強くひっぱたく。
 彼女は一瞬驚きに目を丸くしたあと、半信半疑といった様子で尋ねてくる。

「……だってメリー、こっちの世界でいいの? 電気もなければ研究室もないし、それに知り合いだって一人もいないのに」

 不安げな蓮子に向かって、これでもかってくらいの笑顔を浮かべ、こう言ってやった。

「それでも。貴女がいるじゃないの」

 ……さすがに、ちょっとだけ、恥ずかしかった。
 蓮子も顔を真っ赤にしていたが、やがて嬉しげに大きくうなずいた。

「さあ、そうと決まったら蓮子、さっそく入居先を探しましょうか。いつまでも博麗神社にお世話になっているわけにはいかないからね」
「あ、うん。でもそんな急がなくても。外の世界に一回帰って準備してからと思っていたし」
「下見だけでもやっておいて損はないでしょ。さあ早く着替えた着替えた」
「うん…………と、つっ」

 服を脱いでいた蓮子が、急に足を押さえて顔をしかめた。

「どうしたの?」
「いや、なんか足が痛くてね。筋肉痛かな」

 蓮子の足を覗き込む。履いていたオーバーニーソックスを脱がすと、その下にアザのような黒い染みがいくつも出来ていた。

「ちょっとこれ、どこかにぶつけたんじゃないの?」
「そんな覚えはないんだけどなあ」
「まあともかくこれじゃあ、今日の不動産巡りは中止ね。早めに帰って早めに休むわよ」
「うん。そうね」

 こうして私達は博麗神社へと帰った。
 だけどこの日が、蓮子があの洋菓子店に通えた最後の日となった。










9.

 次の日。蓮子は体調不良でまともに動けなくなっていた。立ち上がるのがやっとというほど足に痛みが走るらしいのだ。
 これではバイトどころではない。しかたがなくあの洋菓子店には謝って、休みを貰ってきた。

「んー、風邪かなあ」

 足以外にはとくに悪いところのない蓮子は、博麗神社の布団で横になりながら、そんなとぼけたことを言っていた。

「そんなわけないでしょ。どうせ蓮子は普段の運動不足が祟ってるのよ」
「メリーが大丈夫なのに、それは納得行かないなー」

 口はまったくもって達者だ。
 しかし霊夢までもがおでこに手を当てて「熱はないみたいね。過労じゃないの?」と言ったので、蓮子は口を尖らせる。

「まあ今日一日は静かにしてなさい」

 霊夢はそういい残して部屋から出て行き、私と蓮子が残された。

「あー、もう。寝たままなんてもったいない。一日を損した気分よ」
「いいじゃない、たった一日くらい。これからずっとここで暮らすんでしょ?」

 そう言うと蓮子はにんまり笑っておとなしくなる。

「しかしまあ、長引かなきゃいいんだけど」

 ふと蓮子のおでこに手を当てた。たしかに熱はなく、むしろ冷たい。
 ……冷たい?

「ねえ蓮子。あなたって、いつもは体温高かったわよね」
「こっちが高いというよりは、メリーが低体温なんでしょ。私は人情に厚いから身体も熱いのよ」

 軽口で返されたが、私の胸中には急に不安が湧き上がってきた。
 普段の蓮子は、私よりもずっと体温が高いはずだ。なのに今は、私が触っても冷たく感じるほど体温が下がっているのはどういうことなのか。

「……蓮子、毛布もう一枚持ってくるから。あったかくしないとダメよ」
「はいはい。まったくもう。メリーは心配性ね」

 しかしその不安は的中してしまった。





 翌日。蓮子の容態はさらに悪くなっていた。
 目は真っ赤に充血し、足に出来たアザのような染みはさらに増えていた。もう起き上がるのも辛いらしい。それでありながら体温はひどく冷たいのだ。
 さすがにこうなってはただの風邪や疲れなどではない。霊夢は医者を呼んでくると言い、いずこかへ飛んで行った。

「蓮子、大丈夫?」
「うー。ちょっと厳しいかも」
「ねえ、もしかしてここの風土病にかかったんじゃないの。こんなに自然があるところなら、いろんな病気だってまだ残っているはずでしょ」
「うーん、そうじゃないと思うんだよねえ。私、ちゃんと汎用免疫予防接種を受けてるし。それに霊夢も、見たこともない病状だって言ってたし」

 聞けば聞くほど不安になる。だというのに私にできることなどなにもない。
 ただ心配をするだけで時を過ごしていると、霊夢が呼んだ医者がやってきた。赤と青に塗り分けられた不思議な服装をした女医だった。

「じゃ、診察するから。まず、舌を出して」

 蓮子の身体のあちこちを確認し、自覚症状を聞き取り、なにやら見たことがない道具を押し当てるなどしたあと、その女医は難しい顔をして首をかしげた。

「……これはちょっと、難しいかもしれないわね」
「アンタがそんなこというなんて珍しいじゃない」

 霊夢の質問に女医は首を振った。

「今まであらゆる病気を知っていると自負していたけど、自惚れだったらしいわ。こんな症状は見たことも聞いたこともない」
「どんな薬でも作れるんじゃないの?」
「病気の原因がわからなければ薬は作れないわ。まずそこから調べないといけないから、すぐには対応できないわね」
「蓮子は大丈夫ですよね?」

 私が尋ねると、難しい顔をしながらも彼女はうなずいた。

「全力で調査してみるわ。とりあえず気休めだけど、栄養剤を出しておくから飲ませておきなさい」
「はい。よろしくお願いします」

 そうして女医は帰っていった。
 蓮子はやつれた顔をしていたが、それでも嬉しそうな表情を浮かべてこう言う。

「ねえ、今のお医者さん見た? 注射器持ってて採血までしたわよ。幻想郷の医療レベルも侮れないものよね」
「はいはい、はしゃぎすぎないで栄養剤を飲みなさい」

 渡された錠剤を蓮子に押し付ける。
 彼女はぽりぽりとそれをかじっていたが、粉にむせたのか激しく咳き込んだ。

「ごほっ! げほっ! メ、メリー……お茶」
「今もって来るから待ってなさい」

 そう言って立ち上がりながら、ちらりと蓮子の顔を確認する。
 口の端に血の飛沫が飛び散っているのが見えた。





 翌日が過ぎ、そしてさらに翌々日。
 蓮子の容態は日増しに悪くなっていった。
 寝ていれば苦痛はほとんど無いらしいが、いつも病気知らずで動き回っていた彼女にとって、身体の自由が利かず日々悪化する病状は拷問に等しいものだ。
 笑顔はいつの間にか消え去って、虚ろな瞳で外の景色を眺める時間がほとんどとなった。

「ねえメリー」

 布団に横たわったままで蓮子が口を開く。

「私さあ。もしかして、このまま死んじゃうのかな」
「そんなわけないじゃない。なに言ってんのよこのバカ蓮子は」

 傍らに座っていた私は即座に否定し、半ば怒ったかのような表情をつくって蓮子のおでこを小突く。
 正直に言えば私も不安でたまらなかった。だけどそんな様子を見せるわけにはいかない。
 病人が弱気になるのは当たり前だ、周囲の人がそれを支えてやらなくては。

「それより蓮子、例の洋菓子店からお菓子を貰ってこようか」
「いい。食欲が無いから」
「そんなこと言ってるからダメなのよ。……いたっ!」

 なにか取ってこようと立ち上がった私は、急に足に走った痛みに声を上げ、思わずへたり込んだ。
 トゲでも踏んだのか。そう思って足を探るがそんなものは見つからない。
 だけどその代わりに、私の足にうっすらとしたアザのような染みが浮かんでいるのが目に入った。
 同じだった。あの時、初めて症状が出た蓮子の足と。
 私も……同じ病気なんだろうか。蓮子と同じ……

「メリー……」

 様子から察したのか、蓮子が布団の中から不安げな声を上げる。
 恐怖が部屋一杯に広がろうとしていた。思わず叫びだしそうになったその瞬間、

「病気の原因がわかったわ」

 あの女医が霊夢と共に、障子を開けて唐突に現れた。





 女医は入ってくるなり私の足を眺めて「ああ、やっぱりあなたも発病してるわね」と、こともなげに呟いた。

「発病って、結局この病気はなんなんですか!? 本当に治るんですか!」

 女医の落ち着いた態度が腹立たしく、つい怒鳴るように叫んでしまう。
 だが彼女はあくまで冷静なまま答えてきた。

「ちゃんと治す方法はあるわよ。だけどそれに対する薬は、すぐには作れないわね」
「どういう……ことですか」
「あなた方の病気はビタミン欠乏症。つまりは一種の栄養失調よ」

 ビタミン欠乏症? そんな馬鹿な。ありえない話だ。
 そう言おうと思ったら、霊夢が先に反論を始めた。

「栄養失調? そんなわけないじゃない。三食ちゃんとしたものを食べていたって言うのに」
「ビタミン欠乏はただの栄養失調じゃないわ。ごく微量だけど必須な栄養素、それが足りなくて起こるのよ」

 それは知っている。でも、これはおかしいじゃない。
 私は、霊夢に続けて反論する。

「ビタミン欠乏症は聞いたことあるけど。でも、そんな偏った食生活なんてしてなかったわ。それに幻想郷に来てから三週間くらいしか経ってないし、そんな短時間で起こるわけないじゃない」
「ええ、そうね。普通のビタミン欠乏症はどれも数ヶ月から数年間摂取しなかったときに起こるもので、既知のビタミンでは一ヶ月程度抜いたくらいで問題になるものはないわ」
「じゃあなんで……」
「未知のビタミンが不足しているのよ」

 そう言って女医は、試験管を取り出した。中には採血した蓮子の血が入っている。

「あなた方、外来人と言ってたでしょ? これに含まれていた細胞を調べさせてもらったわ。その結果わかったのが、そこの彼女――そしてたぶんあなたも、通常の人間とは有機化合物の合成能力が異なっているということね」
「それって……どういう……」
「つまりあなた方には、既存のビタミン栄養学の概念が当てはまらないのよ。通常の人間ならまったく摂取しなくていいはずの、未知のビタミンを取り入れる必要があるってことね」
「で、でも! 私達、この歳になるまで今までなんの不自由もなく生きてきましたよ!」
「そこなのよ不思議は。で、あなた方は向こうの世界で普段なにを食べていたの? 一週間と間を置かず、それこそ毎日のように常食していたものはある?」

 そんなことを言われたって困る。外の世界でだって、そんな定期的な薬のように口にしていたものなんて無い。
 食べていたものだってごく普通だ。
 合成米や合成肉、合成小麦に合成魚に、合成乳に合成卵に……

 ……合成……に、合成……に、合成……に……

 絶句してしまった私を見て、女医はまるで判決を下すかのような厳かな声で宣言した。

「心当たりはあるようね。じゃあすぐに元の世界に帰って、それを食べること。それが唯一の治療法よ」

 あまりのショックに愕然としながら、無言で蓮子の方へと振り返った。
 彼女は布団で横になりながら涙を流している。
 そして小さな声で、「ダーウィンの悪魔にやられた」と呟いた。



 その言葉を耳にして、私は幻想郷に来る前の山道で交わした会話を、はっきりと思い出していた――









3.

「ダーウィンの悪魔? また蓮子も妙なことを言い出すわね。どうしてエントロピーと進化論の話で悪魔が来るのよ」

「マクスウェルの悪魔に関連させてるからよ。こっちなら聞いたことあるでしょ」

「たしかにそれは知ってるけど、ダーウィンの方は初耳ね」

「よくある進化論への誤解よ。生物の進化というのは必ずしも複雑化へと進んでいるわけではないわ。たとえばミミズなんかがいい例で、あれは元々立派な足があり、ちゃんとした眼もあり触角もある生き物だったけれど、地中生活に適応した結果あんな単純な姿になったのよ」

「それは退化って言うんじゃないの?」

「単純化したのを退化呼ばわりするのは人間の偏見。進化と退化は同じことなの。生き物はただ、環境に適応した形へと変化しているだけよ」

「うーん。でも、より複雑な機能を持った身体になった方が、生存には有利になる気がするんだけど」

「メリーはミミズ様を侮りすぎね。ミミズは四億年前に誕生してから、滅ぶことなく世界中で繁栄しているのはなぜだと思う? 土の中という環境においては、あの姿がもっとも優れているからよ」

「なんか納得が行かないわ。複雑にならないのに優れているなんて」

「そういうものよ。そもそも動物だって、単純化の方向に進んだ『退化』したものなんだから」

「どういうこと?」

「原始の生き物は、無機物だけを食べて有機物を合成することで生きてきた。これを独立栄養生物といって、今でも植物なんかがそうよ。ところがいつの時代からか、無機物から合成することを面倒くさがり、他人が作った有機物を横取りする輩が現れたの。これが従属栄養生物で、動物はすべてこれに当てはまるわ」

「たしかに食物連鎖をさかのぼれば、最後はかならず植物になるわね」

「つまり動物は、有機物を合成する機能を捨て去った、退化した生き物なのよ。メリーもそこらへんの植物様に謝りなさい」

「まあ、それはあとで酸素の件と併せてお礼をするけど……。なるほどねぇ。進化したといっても、複雑になるとは限らないのか」

「そうよ。さあ、そしてここで登場するのがダーウィンの悪魔、またの名を自然淘汰。彼の仕事は、次々と突然変異で新種が誕生している生き物達の中から、環境に適応していない奴らをどんどん消していくことです。さて、こんな世界では、環境に適応した生き物だらけになるのとならないの、どっちの場合が『単純』?」

「そりゃあ……環境に適応した生き物ばっかりの世界になる方が『単純』ね……」

「たとえ、適応した生き物の姿が複雑になっていようとも――」

「――それは単純化であり、エントロピーの増大ってわけ……か」

「そう。これがダーウィンの悪魔よ」










10.

 こうして私達の、幻想郷でのロングステイは終わった。
 元の世界に帰って合成食品を食べ始めると、蓮子はみるみるうちに回復していく。
 だが元気になったのは体だけで、心はいまだに沈み込んでいた。

「蓮子、ご飯買ってきたわよ」

 もう大丈夫だろうけども、念のために私は蓮子の看病を続けていた。と言っても歩けるほどに回復した今の蓮子に手を貸す必要も無く、ただ買い出しに行ってるだけだが。
 テーブルにハンバーガーセットを並べる。原材料は合成小麦に合成牛肉、それに合成芋に合成卵だろうか。
 蓮子は一瞬だけ憎憎しげな視線をハンバーガーに向けたが、やがて諦観の表情でそれを手に取り、力なくかぶりついた。

「ねえ蓮子。この食べ物の中には、いったい何が入っているんだろうね」
「……さあ、ねえ」
「未知のビタミン……本来の人間なら必要のない物まで摂らなくちゃいけない。そんな私達はなんなのかしらね。人間じゃないのかな」
「……人間よ。ただ、ホモ・サピエンスじゃなくてホモ・テクニコってだけで」
「ホモ・テクニコ?」
「技術文明の中でしか生きられないヒトのことよ」
「ああ……なるほど。文明が長く続くうちに知恵を持つヒトはいつの間にか消え去り、技術文明に依存したヒトだけが残ったのね」

 そして二人は黙り込み、お互い静かにハンバーガーを口に運び続ける。
 元気付けるために私はことさら明るい声を出した。

「そんなに落ち込まなくてもいいじゃない。数日くらい遊びに行くだけなら平気ってことでしょ?」
「うん、それはもう気にしてないんだけどさ……」

 蓮子はふと顔を上げ、窓の外の街並みを眺めながらぽつりと呟いた。

「もしこの文明がなくなり、合成食品を作れなくなったら、人間はどうなるんだろうね」
「そりゃあ……」

 その続きは言えない。

「もう人間は最後まで、この偽物の檻の中で暮らさなきゃいけない。いや、檻じゃなくて水槽ね。壊れたら死んじゃうから」

 外では夕陽が沈みかけており、ビルが長い影を作っている。
 自分がどうやって生きてるのかさえ知らない人々は、その影の中で楽しげに帰路を急いでいた。









「われわれの技術社会の崩壊がおこるようなことがあれば、かりに、その後に幾百万の人々が生き残ったとしても、取り返しのつかないことになるだろう。彼らが適合していた環境は消えうせてしまい、ダーウィンの悪魔は、情け容赦もなく、一顧だに与えずに、彼らを一掃してしまうことだろう」

          ――――アイザック・アシモフ著『現代悪魔学』より












2009/01/28 掲載
初出:2009/01/22 Coolier - 真型・東方創想話 作品集68






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