絡まる糸車





 アイツは曲がったことが嫌いな奴だった。
 ガキの時から知ってるが、その頃から悪事を嫌い、正しいことだけを貫き通そうとする。それだけなら大した善人だが、アイツはそれを他人にも無理やり押し付けてくるんだ。
 当然のことながら周囲からは嫌われていた。アイツは独善的だと誰もが非難していたし、オレもそれには同感だ。
 だけどオレは、そんなアイツをどうも憎めなかった。
 たしかに口うるさいし、耳に痛いことをしょっちゅう聞かされる。正論ばかりぶつけてくるので、こっちは悪者にされた気分になって不愉快だ。
 だけど正しいと思えることをなんのためらいもなく言ってのけ、同時にやってしまえるアイツが、正直うらやましかった。
 そんなアイツの性格は、大人になってからも変わらなかった。
 妙な縁があったのか同じ会社で働いていたオレは、アイツが周囲と衝突しているのを何度も目にしていたのだ。
「こんな予算書が認められるか。余計な設備をごちゃごちゃ増やして、三倍以上も金を食ってるじゃないか」
「余計な設備ではありません。汚染物質の十分な除去には必要なんです」
「当初の案でも、基準値以下になるはずだろ」
「現在の基準値では後に禍根を残します。いいですか、これは先月に発表された論文ですが、それによれば――」
 と、見かけるたびにこんな調子だ。
 間違っていると思ったら、上司だろうがおかまいなしに抗議する。はっきり言って評判は悪かったが、人並以上に仕事ができているという事実でなんとか補われていた。
 しっかし難儀な生き方を選んだものだと、オレは内心呆れていた。
 そもそもそんな性格を振り回したければ、こんなとこに勤めなければいい。大企業だからこそ、経営活動が誰かの迷惑になるなんて日常茶飯事だ。さらには企業内での派閥争いもあり、人間関係にも気を使わなければならない。
 アイツはどこかの田舎に引っ込んで、教師とか医者とか司祭なんかになってりゃよかったんだ。それならあの生き方でも問題なく過ごせただろう。
 ある時どうにも我慢できなくなって、ついオレはアイツに「いい年して、もっと臨機応変になれよ。世の中は奇麗事じゃやってけないぞ」なんて説教しちまった。
 すると返答としてこう来たね。
「正しいものは正しい。因果は巡る糸車、と言うだろう。正しいことをやっていれば必ず正しい結果が返ってくるんだ」
 こう言われてしまっては、オレとしては返せる言葉が何もない。
 そんなわけでオレは、アイツが恒例のように誰かに噛み付いている姿を、ただ眺めているだけだった。
 呆れたような眼を装いつつも、心のどこかに羨望を隠して。

 それからしばらくして、アイツの上司が変わった。そしてアイツの衝突はますます酷くなった。
 その上司は頭の回転が速いし、要領もいい。だが自分を一番大事にするタイプで、バレなきゃなにをやってもいいと考えるような男だ。
 だがまあ普通に考えれば、さほど酷い人間というわけでもない。誰だって自己中心的なところはあるし、他人の目がなければついつい悪事だってやってしまうだろう。
 オレから評するならば、友人になるのは遠慮したいが、ビジネスだけの付き合いなら歓迎しますよ、ってとこだろう。
 だけどアイツにしてみれば、これ以上はないほど最悪な人間だった。
 ある日、たまたまその二人が話し合っている横を通りがかったわけだが、
「あなたはなんとも思わないんですか! 我が社の公害のせいで、苦しんでいる人々が大勢いるんですよ。こうしている今でも、罪もない子供たちが死んでいるというのに」
「公害じゃない、あれは風土病だ。排出物質は基準値以下だし、そもそも因果関係が立証されてない。偽善ぶっている暇があったら、利益を上げることを考えろ」
「人間の心がないんですか、あなたって人は!」
「青臭いことを吐くな。こっちだって人間として生活するために働いているわけだ。お前だって同じだろうが」
「な……、だからこそっ!」
 という風にアイツは顔を真っ赤にして主張している。
 だが例の上司は、印象的な細眼鏡の位置を軽く直しながら、聞き分けの悪い子供をあしらうかのような態度で接していた。
 その様子を見ていたオレは、ああこりゃアイツ長くは持たないな、なんてふと思った。
 そして、実際そのとおりになった。

 アイツは会社の金を横領した。
 一生分の給料に匹敵するような大金を盗んだのだ。そしてその大部分を、例の「公害に苦しむ人々」とやらに寄付してしまったらしい。ありそうな話だと誰もが思った。
 けれどアイツはそれを認めなかった。「僕は犯罪なんてしない! それはなにかの間違いだ!」なんて、必死で抗弁していた。
 しかし捜査が始まると、たちまちアイツの周囲からは証拠がポロポロ出てきた。
 アイツは否認を続けたが、かばうやつは誰もいなかった。普段から嫌われていたということもあり、皆が「アイツならそれぐらいはやるだろう」と口を揃えて罵った。
 酷い話だが、オレも見捨てた人間の一人だ。
 罵りこそしなかったとはいえ、かばうこともしなかった。あまりに証拠が揃いすぎていて、オレが何か言ったところでどうにもならなかっただろう。
 いや、言い訳はやめよう。正直なところ、巻き込まれるのが怖かったんだ。
 アイツのことはよく知っていたのに、味方にならなかった。それはアイツのことをよく知らずに敵に回った人間より、もっと酷いことをしたように思う。
 そしてアイツは、首を吊って死んだ。
 告訴される直前だった。アイツは自分が罪人として晒されることに耐えられなかったのだろう。
 死人を訴えるわけにもいかず、事件はそれで幕となった。
 普通なら話はここで終わりだ。





『……許せない。絶対に許せない』
 僕は声にならない声で呟いた。
 駅へと入るあの男の後ろを、あらん限りの憎しみを抱いたままでついていく。
 僕は切符も出さずに改札を通過するが、駅員が見咎めることはない。それどころかこちらに気付いている様子もない。
 周囲の人も同じだ。誰も僕の姿に眼を留めず、人ごみの中を真っ直ぐ突っ切っているのに、ぶつかることさえない。
 なんでこんな状況になっているのかは薄々わかっていた。これが死んだということだろう。
 まだ僕の首には縄が巻きついたままで、どれほどかきむしっても取ることが出来ず、延々と苦痛を与え続けている。
 だけどそんなことはどうでもいい。それよりあの男だ。あの男だけは絶対に許せない。
 そうとも、僕は横領などしていない。犯罪なんて絶対にするものか。
 なにかの間違いだと必死で訴えたが、誰も信じてくれなかった。出てくる証拠はすべて、僕が犯人であることを示している。
 あのときはどうしようもない不運だと運命を呪ったが、それこそが間違いだった。
 あの男だ。あの上司が、いつも仕事で衝突していた僕を罠にかけたのだ。
 生きてしまったあとになってから、やっとそのことに気がついた。
『殺してやる。殺してやる。必ず殺してやる』
 強い憎しみを込めてその背中を突き飛ばす。僕の手には何の手ごたえもなかったが、あの男は無様に転んだ。いい気味だ。
 これが生きている頃ならば、息の根が絶えるまで殴りつけてやったことだろう。けれど今の僕にはそんな力はない。隙を突いて転ばせるくらいが精一杯だ。
 だがこんなものでは済まさない。僕のような正しい人間が死んで、あんな悪人がのうのうと生きているなんて間違っている。
 さっき転んだ場所はただの通路だったから、膝をつくだけで済んだ。だけどもし駅のホームの端で転倒したならば……そう、お似合いの末路だ。
 あの男はプラットホームの先頭に立っている。僕はその背後についてほくそ笑んだ。
 汽車が駅に近づいてくる。
 もうすぐだ、ギリギリのところでホームから落ちれば、この男は……。
 憎たらしい細眼鏡ごと車輪に轢き潰される様子を思い浮かべると、笑みが止まらない。
 ほんのひと押し。よし、今だ。
 僕は全力を込めてあの男を突き飛ばそうとする。
 不意にその手が、背後から伸びてきた手によって押さえつけられた。

 あの男は無事に停車した汽車に向かって、平然と乗り込んでいく。
 僕はそれを見ながらも動けない。がっちりとした無数の手に押さえつけられているのだ。
『首吊りさんよ。余計な真似はしないでもらおうか』
 背後より、地獄の底から響くような低い声が聞こえた。
 振り返って見ると、頭に銃痕を空けた男が立っている。そいつが僕の手首を掴んでいるのだ。
『な、なぜ? あんな悪人は死んで当然じゃないですか! 自分のことしか考えず、同じ会社の人間でさえ陥れるような奴なんか!』
『だから、いいんですよ』
 別の声が足元から聞こえた。性別さえわからない、骨と皮だけのやせ細った人が僕の足首にしがみついている。
『あの悪党が好き勝手暴れれば、数年であの会社は潰れます。さんざん公害を撒き散らしたあの工場が止まるのです』
『私の会社を潰した、あのクソ社長も無一文よ』
『筆頭株主にも大打撃だ。俺の女を奪った報いを与えてやる』
『俺らはもう10年以上待ってるんだ』
『首吊りの新入りさんよ。そういうわけだから、引っ込んでいてもらおうか』
 肩に、足に、首に、腰に、腕に、無数の手が絡みついて動けない。
『だからって、あんな奴をのさばらせておけというのか!』
 僕の叫びは、絡みつく亡者どものうめきにかき消された。





 普通なら話はここで終わりなんだが、アイツの葬式が終わった後であることに気付いちまった。
 例の細眼鏡の上司。そいつが担当しているプロジェクトで、資金の流れが不透明だった時期が見つかったのだ。だがその不透明さも、アイツが死んだ時期から無くなっている。
 それはちょうど、アイツが横領したといわれる金を使えば、綺麗に穴埋めできるくらいの金額だった。
 調べてみたが、証拠はなかった。あの頭の回る上司が企んだのであれば、オレごときにわかるような手がかりは残しちゃいないだろう。
 オレは奴を夕食に誘い出して、そのことを話題に振ってみた。まあ当然のことながら、面白い偶然だとあっさり流された。
「そうそう。君にも今度、適当なポストをあげよう」
 などと思い出したかのように付け加えられたりもしたのだ。
 しらばくれられては、打つ手は何もない。
 証拠もないし、反省もない。オレに刺し違えろってか。バカバカしい。
 満足げに煙草をふかしながら、奴はこう言った。
「プロジェクトは順調に進み、みんなが疎ましく思う人間はいなくなり、君は出世できる。彼が死んで大団円じゃないか」
 あまりの軽口に、オレは思わず抗議しちまったね。そこまで死者を嘲るのはどうなのかと。
 そう言った次の瞬間、オレは驚きに目を見張った。
 天井に漂っていた煙草の紫煙が渦を巻いて形を成し、まるで人間の顔のようになったのだ。細眼鏡の頭上で憤怒に表情を歪ませたそれは、間違いなくアイツの顔だった。
 だがアイツは周囲から伸びている無数の手によって捕らえられている。そして、身動き一つ出来ない怒りに絶叫していた。
「……ははっ。死人には何もできやしないよ。だいたいそれなら、歴史上の殺戮者はすべて祟りで死んでいるはずだろう?」
 奴の声で我に返った時にはもうアイツの顔はなく、煙は形を失って漂うだけだった。
 細眼鏡はいかにも上機嫌そうに酒を飲み、煙草を楽しんでいる。
 オレは深く息を吐く。
 因果を紡ぐ糸車は絡まり、動こうとはしなかった。


2008/06/24 掲載





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