深い眼





1.曲上村

 息を吸い込めばむせてしまいそうな森の匂い。目を上げれば日差しを和らげる梢のトンネル。そして落ち葉と朽木で敷かれた絨毯。
「しっかし、ここまで山奥だとは思わなかったよなぁ。バスどころか、舗装道すらないとはなぁ」
 前を歩く今回の同伴者が楽しさをたっぷりと含ませた声で不満をもらす。おおかた、こちらが不満を抱いているとでも思っているのだろう。
 なので、こちらも切れかけた息を隠して精一杯陽気に返す。
「なにを言ってる? この雄大な大自然。都会のコンクリートで疲れた我々を癒すのには最適だろう?」
「それはどこのパンフレットを暗記したんだ?」
 あっさり返される。まあこの軽口合戦でわずかなりとも疲れは忘れたから、感謝はするべきだろう。
「しかしまあ、ここまでとは……だよなぁ」
 ふとつぶやくように聞こえた声。それもこの、うっそうと生い茂る森に吸い込まれていった。

 俺の名前は秋澤秀文(アキサワ ヒデフミ)。21歳で、ごく普通の会社でごく普通に営業をしている。営業成績は、まあ悪くはないだろう。
 前を歩いているのは、友人で同僚の陣内柾谷(ジンナイ マサヤ)。歳は今こそ俺より1つ上だが、生まれた日で考えれば4ヶ月ちょっとしか離れていない。
 ちなみにこいつの成績はハッキリ言わなくても悪い。だが陽気で人当たりがよく、会社の中では欠かせない。いわゆるムードメーカーというやつだ。
 二人とも高卒で入社してもう4年目だ。入社当時は少ない給料で綱渡りのような生活をしていたが、今くらいになれば貯金にもまあまあの余裕が出てきた。
 そこで気の会う二人で、コツコツと貯めてきた有給休暇を一気に申請して骨休めと来たのである。
 だが、温泉宿に来たはずなのに、まずこの山登りをさせられるとは予想外だった。
 たしかに俺達は穴場中の穴場といわれる、明日にも地上から消えてしまいそうなほど寂れた所を選んだ。
『世俗に汚されていない、原始のままの自然を満喫しよう!』
 そう思っていたのだが、駅からのバスは宿の隣の町で停止した。バスさえも通っていないのだ。
 よってこの山道を延々と歩く羽目になっている。距離は10km弱と聞かされたが、聞くだに嫌になる距離だ。まさに原始のままを満喫させられている。
「秋澤ぁ。ほら、見えたぞー」
 心の独白を読まれたかのように、タイミングよく陣内が声をかけてきた。いつのまにかだいぶ前に進んでいたアイツは、森が切れているところで手を振っていた。
 そこまで一気に駆け上ると、眼下に小さな集落が見えた。いや、いちおうは村だな。だけど盆地に木々と混じって点在する木造家屋群には、やはり『集落』という言葉がしっくりときた。
「ようやく着いたな。温泉を浴びる前にまず疲れさせておこうということか。気が利いているじゃないか」
 そんな軽口を聞き流し、小さく広がる『集落』を、息を整えながらゆっくりと見下ろした。
 ここが俺達の有休の使い場所、曲上村(マガカミムラ)だ。

 見下ろす盆地には温泉からの湯煙と霧が入り混じっていた。それは神秘的という光景を作り出しているはずなのだが、俺はそれに何か不吉な黒い予感を見たような気がした。
――このとき、この予感に従順に来た道を引き返していたら、こんなことにはならなかったのに。
 後からそう根深く後悔することになるが、神ならぬ俺達にはわからぬことであった。






2.奇妙な期待

「……ようこそいらっしゃいました。曲上村温泉旅館へ」
 あらわれた番頭らしき老人を見て、俺達は一瞬言葉を失った。
 なにしろその老人の顔は右半分が酷く歪み、もう半分は大きなシミが支配していて、とてもマトモに見られる顔じゃなかった。
 だが、横で立ち尽くしていた陣内は真っ先に硬直から解けた。
「あ、ああ。3日間だがよろしくたのむよ」
 なんとか朗らかな笑顔を作って平静な対応をしている友人をみて、俺も正気に戻った。
 そうだ、きっと大事故か大病をわずらってあのようになってしまったのだ。それをみて絶句するなど失礼だろう。ここはいつも通りの対応をしなくてはいけない。
 しかし、どんな病気や事故にあえば、人の顔はあれほど歪むのだろうか? それに、一瞬恐怖を感じた理由をもう1つ発見した。
 それはあの眼だ。
 老人によくあるわずかに濁った眼球だが、その奥底の光はとても深い深いところから輝いているような気がして――まるで引きずり込まれそうに思えた。

 そんな不気味な老人に案内されて、部屋に案内される。旅館としては一般的であろう六畳和室だったが、どこからともなく形容しがたい異臭が微かに漂う。カビかなにかだろうか?
 陣内はそのことにはほとんど気にした様子もなく、老人が去ったあとに座布団に勢いよく腰を下ろし、さっそく茶を淹れはじめた。
 俺は少し表情を曇らせて、陣内に向き合って座った。
「なあ陣内。この旅館、少し薄気味悪くないか?」
「なんだ、お前。そんなことを気にしていたのか。不甲斐ない」
 彼は何事も無いように笑顔で言い返してきた。
「さびれているからこそ、ここの温泉を選んだんだろ? サービスが悪いことも楽しまないとまだまだ2流だな。そりゃ、まあ、あの爺さんにはちょっとビビったがな」
 チッチッチ、と舌を鳴らし人差し指をふってそう言い切った。
 確かにそういわれてみると、ちょっと気味が悪いくらいで気分を暗くしたこちらの方がバカみたいに思える。
 そうだ、これも予定のうちなのだ。このくらいでへこたれていては平凡なレジャー客のようだ。
 まったく……不甲斐ない。どうやらこの俺も、だいぶ文明生活の便利と清潔さに慣らされてしまったようだ。
 気分を180度転回させて、少し勢いをつけて立ち上がった。外の自然を味わってこよう。そうすれば暗い気分なども残らないだろう。
「ちょっと、あたりを散歩してくるわ」
「おう、そうしろ。俺はテレビでも見てるよ。どんなローカル放送があるか楽しみだ」
 にこやかに、やや理解しがたい価値観を語った陣内に軽く手を上げて、俺は下駄に履き替えて外に出た。

 外にでると、まだ日は出ているが、ゆっくりと夕焼けの赤が満ちてくる時間帯だった。少しずつ伸びてくる影とともに、村の周囲を散策する。
 ここは自然に囲まれていて、本当に落ち着けるところのはずなのだが、そうはならなかった。なぜかといえば、それは村人の視線だ。  観光客などほとんどいない村の中で村人以外が歩いている。それが人目を引くことは理解できるが、その視線の種類がなにかおかしかった。
 それは、ありがちな珍しいものを見る目つきでもなく、敵意のこもったものでもなく、もちろん人懐っこい笑顔でなんかありはしない。
 それは、こちらを期待する目だった。それもなにか高尚な期待ではなく、どこか低俗な。
 こちらが村にお金を落としてくれるのに期待しているのだろうか? だがちょっと歩き回ってもろくな土産物さえ売っていないここで、そんなことがあるのだろうか?
 落ち着かなくさせる視線を、あちこちで一身に浴びた俺は、どこかが疲れた感覚で宿に戻った。

 部屋に戻ると陣内はすでに一杯やっていた。
「おかえりぃ。早いな……ってほどでもないか。もうこんな時間だしな」
 苦笑いだか、ただ普通に笑っているのかわからない表情で声をかけてくる。その足元にはもう空になったビール缶が2本ほど転がっていた。テレビを見ながらサキイカを口にくわえてご機嫌だ。しかし、そんなことなら家でやってもなんら不足はないと思うが。
 あいつの笑いとは正反対の声色で、俺は話しかけた。
「なあ陣内。やっぱりこの村はおかしいよ」
「なんだ、まだ言うか。おおかた村の人から冷たくでもあしらわれたのか?」
「いや、そうじゃない。ただ、なにかとても不気味な眼でこちらをじっと見つめているんだ」
「ははっ。おおかたよそ者が珍しいんだろ。警戒心と好奇心が入り混じるとそんな感じになるって」
 相も変らぬ気楽な声しかかえってこない。
「だが、しかし……」
「いーから。先に温泉に入ってこいよ。外を歩いて少し汗かいただろ? きっと気持ちがいいぞ。そしてその後にビールをスカッと飲めば、気分だって晴れるさ」
 果たしてそうなのだろうか? 本当にこれは俺の杞憂なんだろうか?
 だが、文句を続けるにはあまりにも証拠が少なすぎるので、とりあえずは陣内の言うとおりに風呂に入ることにした。






3.浴場にて

 その旅館の風呂は地下にあった。「温泉 → 地階」との案内板にしたがって地下へ続く階段を進む。
 その階段は古く、ガッシリとしていて、そして長かった。
 大きな石を削りだして組み合わせた地下への階段は、百年以上はあるだろう年季を漂わせると同時に、ちょっとやそっとのことでは崩れそうに無いほど頑丈そうだった。もしかしたら、何百年も前から、雨水や地震に耐えてここにあったのかもしれない。
 そんな階段を下りて風呂場へと入る。そこは混浴であった。まあ、今日の客は我々だけのようなので、そういう期待はまったく出来ないが。
 簡素な扉を開けると、そこの脱衣所もぞんざいな造りであった。おそらく昔はきちんとした脱衣所さえなかったのだろう。
 この調子でいくともしかしたら、混浴にしたのは浴場が1つしかなく、増やすのが面倒なだけなのかもしれない。
 服を脱ぎ、浴室内に入る。そこは見事な洞窟風呂であった。まるで一枚岩の内部をくり抜いたかのような、岩の洞窟の中。奥の浴槽にはこんこんと湯が湧き出している。これは内部循環などではなく、自然に出ている分だろう。贅沢な湯量だ。
 さすがは穴場中の穴場。俺はすっかり気分をよくして、かけ湯もそうそうに湯船へと浸かった。
 やはり本物は違う。今までの不安をすべて吹き飛ばすかのような安らぎ。肉と骨に溜まった疲れをすべて取り払ってくれるかのような温かみ。この温泉だけでも、いままでの苦労と不安は十分なおつりがくる。そう、心の底から思った。
 その時だった。
 ふと、浴槽の近くにある岩に眼が止まった。その岩は少し周りから飛び出ているために眼を引いた。それだけではない。岩になにかが刻まれている。自然になどはできない、あきらかに人の手で描かれた模様だった。それは奇妙で、眼を引かれる。だがそれ以上に不気味で、なにかえも知れぬ恐れを抱かせた。
 見回してみると、あちらこちらに模様が刻まれた岩が見える。それは1つとして同じものはなく、どれも奇妙であった。
 瞬間。心に恐怖がよみがえった。この村に入ってから感じ続けてきた、不気味な違和感。それらのすべてが思い出され、抑えがたい恐怖となって俺を襲った。
 そのとき湯がゴボリと音を立てた。反射的に振り返る。温泉の湧き出し口からの湯量が増えているのだ。だがゴボゴボと音を立てつつ盛り上がってくる湯の噴水は、単に湯がでているだけではなく、もっと恐ろしい存在が出現するようであった。
 ……もう耐えられない! 出よう!
 慌てて湯船から上がり、足をもつれさせながら脱衣所に上がる。その間にも湯の上げる音だけではなく、洞窟全体が地響きを立てていた。はるか遠くから岩を通して、人ならぬ存在の唸り声が聞こえているかのようだった。
 俺は体をほとんど拭くこともなく、浴衣を乱雑にひっかけてその場から逃げるように去っていった。後ろを振り返ると、もはやそこは静まり返り、何事も無かったかのような顔でたたずんでいる浴室があった。

 半ば転がりながら部屋に帰ると、そこに陣内の姿はなかった。乱雑な飲み食いの後が残っているだけだ。
「おい……陣内……うそだろ? どこだよ!?」
 わきあがるすさまじいまでの不安。いないと分かっていてもトイレや押し入れを開けて探し回る。と、するとそこに。
「もう一人のお客さんなら、さきほど温泉の方に向かわれましたよ」
 あの顔の歪んだ老人がそう言って現れた。俺はそれほどまでの不安な叫び声を響かせていたらしい。
 温泉か? まあ、あいつもあの不気味さを見ればもう楽天的な気分では居られないはずだ。しかし、なぜ帰る時に出会わなかったのだろうか? 行く道は一通りなのではないかもしれないが、そこまで広い旅館でもないはずだ。
 少しばかりの期待と膨れ上がる不安が混ざり合い、混沌とした気分に支配された俺は、残されたアルコール類をあおることしかできなかった。

 陣内が帰ってきた。転がり込んでくることもなく、落ち着いた足取りで。だが俺は不安を隠せない声を真っ先にかけた。
「大丈夫だったか、あそこでは」
「…………」
 陣内は黙ったままこちらを見ている。俺はますます不安になり怒鳴るように再度声をかけた。
「おい、陣内! なんともなかったかと聞いてるんだ!」
「……ん、ああ。いや、いい湯だったよ」
 陣内は思い出したかのように返事をして、にこりと笑った。
 その笑みはいつもと同じであるかのようにも見えた。だが、何かが違っていた。
 陣内は何事もなかったかのように食事を始めようとする。陣内の顔から目線を外した俺は、違和感の理由に気づいた。
 あいつの瞳に、いつもは絶対にない、暗く深い光が宿っていたのだ。






4.禍神

 陣内は絶対におかしかった。今までの明るさはなく、なにか底知れぬことを考えているかのように静かに黙り込んでいる。こちらから声をかけると変わらぬ笑顔を見せるが、それもなにか演技によるもののように思えた。
 その後の夕食も、黙り込む陣内と同じく喋らない俺による、暗いものとなった。食事にはなんらおかしいところはないように思えたが、まったく口にした気分はしなかった。あるいは泥団子を出されても気づかなかったかもしれない。
 お互いに一言も喋らずに夕食を終え、歪んだ老人の敷いた布団に2人とも無言でもぐりこんだ。
 俺はまったく眠れることなく、横たわっている陣内の方を見ていた。規則正しく呼吸に合わせて上下する体はまったくなんの変わりもないと思えた。
 だが俺はそれを見ながら心に決めた。明日の朝早くに、陣内を連れて街に戻ろう。この村は絶対におかしい。それに陣内も。場合によっては精神病院の扉を叩くことになるかもしれない。だが、陣内がマトモにならなければ殴ってでも連れてゆこう。
 そう考えているうちに、俺は眠くなってきた。あれほどのことがあったのに。いや、あれほどのことがあったからだろうか? ゆっくりと夢の世界へと足を踏み入れる意識を自覚しつつ、眠りへとついた。

 夢を見ていた。
 深い、深い、深いところ。「それ」はそこから生まれた。地底の生活に耐えられるような硬い体表、今いるどんな生き物ともあてはまらないかのような体躯。
 「それ」は地上へと出てきた。そこには人がいた。「それ」は面白半分に人の家を壊し、家畜を喰らい、人間を屠った。
 刀を持った人間どもが「それ」を殺そうと襲い掛かってきたこともあったが、強い力と硬い皮膚をもった「それ」の敵ではなかった。
 人間達は恐怖とともに、「それ」に名前を付けた。『禍神』(まがかみ)と。
 その名前を「それ」自身がどう思ったかはわからない。ともあれ、名付けられた禍神は人の生活を破壊し続けた。
 あるとき、1人の男が現れた。彼は禍神に恐れも憎しみを抱かず、逆に崇拝し始めた。禍神はその男を面白半分でさせるようにしていた。
 ところが、彼とともに過ごしているうちに、彼の考えていることや言っていることが理解できるようになってきたのだ。
 いや、その逆だ。その男の精神の方が、禍神に理解できる考えや言葉を扱うように変わってきたのだ。きっとその男は、他の人間から見れば狂気にとらわれているとしか思えなかっただろう。
 禍神は、その男がときおりしてくる「なにかを壊せ」「だれかを殺せ」という願いを、気分次第で叶えるようになった。するとやがてその男に従う人間があらわれ、それは徐々に増えていった。
 その男は従う者たちから若者を選び出し、狂気に満ちた苦しい修行をさせた。その修行が終わった者は「司祭」と呼ばれた。その顔は醜く歪み、その心は禍神と共感できるように変質していた。
 時は流れた。禍神を崇拝する人間達は、ある程度増えたが、あまり多くはならなかった。他の人間どもが彼らを敵視し、ときに刀を持った人間を送り込んで殺しまわるからだ。
 もちろんそのたびに禍神に助けが求められたが、それは気まぐれにしか聞き入れなかった。彼にとっては崇拝者も面白半分で飼っているだけなので、全滅さえしなければ少しぐらい死んでもなにも感じなかったのだ。
 禍神と彼らを崇拝するもの達は、歴史の裏でひっそりと狂気と破壊に満ちた生活をつづけた。彼らの「司祭」はまったく発祥がわからない奇妙な衣装を身につけ、そしてみな深い眼をしていた。
 まるで禍神のいた地底を思わせる深い眼を。

――俺は声にならない叫びとともに目覚めた。
 今見たあの夢、あれは真実だ。ここで昔、実際に起こったことなのだ。そして彼らは今にいたるも生き延びている。
 そう、「曲上村」は「禍神村」だったのだ。
 もはや耐えられそうにない。一刻も早くここから逃げ出さなくては。
 そう思い陣内の布団を見ると、そこにはあいつはいなかった。そして、そのときに気づいた。二色灯に照らされて自分に覆いかぶさる影を。
 振り返るとそこには陣内が立っていた。なにか紙のようなものを取り出している。だがそんなことはどうでもいい。あいつの着ているものは浴衣ではなく、奇妙な衣装だった。そう、夢で見た司祭と同じ。
 あいつのその深い眼も同じだった。






5.逃避

 俺は絶叫した。
 もはや目の前にいるのは陣内ではない。はるか昔から続く、禍々しい神を祭ってきた司祭なのだ。
 俺はそいつを殴り倒した。あっさりと倒れたが、ゾンビを思わせる緩慢な動作でゆらりと立ち上がってくる。
 もはや荷物や着替えなどどうでもいい。靴を履き、部屋から飛び出した。
 するとそこには、あの歪んだ老人がいた。その手には、なにか紙が掲げ持たれていた。見ればそこには、あの浴場で見た、気の遠くなるかのような紋様が描かれている。
 まるで相手が武器でも取り出したかのような態度で、俺は老人をも殴り倒した。
 ゴツッ! という嫌な音を立てて、老人は頭から倒れる。その音を後にして、廊下を走り、旅館より外にでる。
 そこにもポツリポツリと見える不気味な村人の姿。全員があの紙を取り出そうとしている。見なくても、そこには紋様が描かれているのがわかった。
 目をそらし、再び走る。旅館のわきを周り、裏庭を踏みつけて人を振り切る。道に出ると、数少ない街頭に照らされたアスファルトの上に村人が数人見える。
 もはや疑いようもなかった。この村にいる人間すべてが禍神の信徒であり、はじめからこの俺たちを司祭にしようと狙っていたのだ。過疎化で村に若者がいなくなったために。
 そして、すでに陣内はその牙の餌食となってしまった。
 家の影をすり抜け、村の出口へと向かう。この村は盆地のために、出入りできる道は1つしかないのだ。そこを押さえられる前に抜け出さなくては。
 だが、村の出入り口は高い木の柵で封鎖されていた。そして、そこには高々と掲げられた……あの紋様。
 胃の中の物を一気にもどした。ビチャビチャと汚らしい音とともに地面に広がった吐瀉物。だがそれさえもあの紋様に比べれば、はるかに美しいように見えた。
 荒い息をつきながら考えた。道を通って出るのはダメだ。あの紋様がある。目を閉じて……いや、そらしてでるか? いや、だめだ。さっきは見えなかったが、きっとあの近くにも人がいる。手探りの状態で、捕まらずに逃げられるか賭けるのは不利すぎる。
 こうなったら、山を直接越えるしかない。しかし、最初に見たときはここの周囲は比較的高い崖に囲まれていた。越えることができるのだろうか?
 ともかく、村の外周をめぐり、越えられそうなところを探すしかない。
 人通りの少ない畑を越えようとして、考えてやめた。たしかに人は少ないが、隠れるところが無い。見つかって遠くから囲まれたら、一巻の終わりだ。
 周囲の人に注意しながら、民家の影に隠れて移動するしかない。村人はもはやみな、あの紋様を手に持って掲げて歩いている。うっかり目に入るたびに、気が遠くなり倒れかける。
 なんとか村を抜け、南の端にたどり着くと、そこには崖が一瞬切れて、柵で封鎖されているところを見つけた。
 ここだ、ここしかない。柵を乗り越えて、降りるのももどかしく飛び降りる。
 だが、柵の向こうの地面はわずかしかなかった。そこから先は、下りの急な崖になっていたのだ。
 着地した瞬間にそのわずかな地面が崩れ、俺は崖から転がり落ちた。不意の出来事に、不覚にも叫び声をあげながら。






6.決断

 一瞬気を失ったらしい。落ちてきた小石が顔に当たり、そのおかげで気がついた。
 目を開けて見ると、崖の上の方に数人の人影がある。彼らも降りてこようとしている、おそらくロープやはしごを持ってきている最中なのだろう。
 逃げなくては。そう思って立ち上がった瞬間に、右足に激痛が走った。どうやら落ちたときにひねったらしい。
 このままでは走れない。だが逃げなくてはいけない。俺は右足をひきずりながら、必死で村から離れようと歩き始めた。
 背後では村人が縄梯子を下ろして、一人また一人と崖から降りてきている。その中には司祭となった陣内の姿もあった。
 逃げなくては、逃げなくては……。ああなってしまうわけにはいかないんだ。俺はあんなふうにはなりたくないのだ!
 足を引きずり、子供でも追いつけそうな速度で逃げる俺に対して、陣内と村人はもてあそぶかのようにゆっくりと歩いて追ってくる。それを見て俺の中にはますます恐怖が浮かび上がった。
 だめだ、このままでは捕まる。そして俺も禍神を崇める者になってしまうのだ。あの夢でみたような……。
 振り向けば変わらず笑みを浮かべているであろう陣内。あいつは紋様を捧げ持った。それが目に入り、気が遠くなり胃液を吐く。その感覚でなんとか我にかえり、また足をひきずり逃げる。

 ふとそこで、とある疑問が頭を掠めた。夢のなかにはあの紋様はでてこなかった。あれはいったいなんなのだろうか?
 いや、それは自分の感覚から明らかだ。あの紋様こそ、見ただけで人を禍神と共感できるようにしてしまう、邪悪な力の塊なのだ。
 そう、昔は司祭になるにはおぞましく長い修行が必要だった。だが、あの紋様が発見されたおかげで、しばらくそれを見つめさせているだけで人の精神を違うものに変えてしまうことができるようになったのだ。
 あの深い眼を持った陣内のように。

 そう気づいたところで、寸前の距離まで追っ手が迫っているのがわかった。
 もはや月明かりのもとではっきりと表情が確認できるまで、陣内達は迫ってきている。紋様がうっかり目に入り、視線をそらそうとしてそのまま力が抜けて倒れてしまう。
 だめだ。もう逃げることはできない。だが絶対に陣内のようになるわけにはいかない……。
 すると、取れるべき手段は1つだけだった。
――俺は、きわめて理性的で狂気的な行動を決意した。
 その力のすべてを振り絞り、自らの親指を自分の両の眼窩に突き刺した。
 やわらかい球体が潰れる感触が親指に感じられる。そしてそれ以上の頭蓋骨を吹き飛ばすかのような激痛。世界が暗黒と化す。
 絶叫。

 ……それからなにも、覚えていない。






7.盲人の絵

 目が覚めた。俺はベッドの上に横たわっているということがわかった。なにか悪い夢を見たあとのようだった。目を開けようとしたが、開かなかった。
「気がつかれましたか?」
 聞いたことのない声で問いかけられる。その男は医者だった。
 どうやら俺は、あの村から少し離れたところ倒れているところを登山客に発見されたらしい。そして少し離れた町の病院に担ぎ込まれたというわけだ。
 両目は完全に潰れていた。医者は二度と光を見ることはできないと言った。だがそれでよかった。あんな恐ろしい物をみてしまうのであれば。
 その町の警官が来て事情を聞かれたが、俺が言いよどんでいると「わかりました」といい、適当で無難な報告書を仕上げてしまった。どうやら、事情はだいたいわかっていたらしい。
 禍神を祭る村が現代まで生き延びていた以上、それを忌み嫌う周りの町もそのまま残っているというわけだ。
 俺は数ヶ月間入院したあと、失明したために会社を退職した。
 陣内は戻ってはこなかった。会社では無断欠席として、本人を待たずに免職処分とされた。俺は無職になったが、保険や退職金・国からの手当てなどで、数年はなんとか生きていけるだろう。

 時々思う。あれは現実ではなかったのではないかと。
 温泉に向かう途中の山道で事故にあって、視力を失った俺の見た悪夢なのかもしれない。それほどあのことは非現実的で恐怖に満ちていた。
 最近、ふと1人でいるときに、紙にペンを走らせているときがある。
 あの、今でも頭に残る、邪悪の紋様を描いているのだ。
 これを他人に見せてそいつが人間の心ではなくなれば、それこそが動かぬ証拠。俺の見たものはすべて間違いの無い現実であったということがわかるだろう。
 だが、それはあまりにも恐ろしく、描き始めては途中でやめて、その場で燃やしている。
 ……もしかしたら、人に見せてもなにも起こらないのではないだろうか?
 たとえ、あのことが本当にあったことだとしても、チラとしか見てない曖昧な記憶と盲目で描く不正確な図形では効果を持たないかもしれない。
 いつもそのことが頭にあり、ふと紋様を描きはじめ、途中で恐ろしくなってやめる。
 俺は今、ただただこれを繰り返すだけだった。


2003/03/06 掲載





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