ニルヴァーナ
あの人の口癖は「永遠が手に入れば」。いつも遠くを見てそう呟いていました。
あの人は、私と出会ったときから最後まで、その言葉を口にしなかったことはありません。
ですから、このような結果を出さなくとも、あの人はすでに永遠であったと思います。ありがちな詭弁の夢であろうとも、この現実よりは、遥かに……。
――あの人とは、親が決めて交際を始めました。その若き日に、すでにうっとうしいまでに容姿を褒め称えられたこの私を見ても、なにか苦笑いのようなものを顔に浮かべて、「まあ、有限だけどもよろしくたのむよ」などと、気取っていない本音の口調で語りかけてきたことをはっきり覚えています。
それまでまったく異性との交際に乗り気ではなかった私が、あの人だけに強く惹かれたのはその瞬間からでした。当時の私はきっと、希少な香水を手に入れたかのような気持ちだったのでしょう。今はわかりませんが。
あの人には、たった一人だけの友人がいました。あの人と友人とは、常に永遠について激しく語り合っていました。その友人は、あの人が追い求めるものを完全に否定していましたが、不思議なくらい仲が良かったのです。
「永遠などというものはありえない。この世界は未来に向けてあらゆる可能性を内包していて、滅ぶ可能性を持たない存在などあるはずが無い。だから『永遠のごとき』ものはあっても『永遠』そのものは無い」
「いや、違う。あらゆる可能性があるのなら、存在する以外の可能性をすべて排除した可能性。すなわち『永遠』があるはずだ」
いつも二人で私にはわからないややこしい話をしながら、いつも同じテラスの奥のテーブルで、とても楽しそうにお茶を飲んでいました。それはなにか美しい風景画のようでした。
なぜ永遠を追い求めるのか? 一度あの人にそう聞いたことがあります。するとまた、例の苦笑いを浮かべながらこう言いました。
「子供の頃は、いつまでも同じような一日が繰り返すんだと思っていた。でも母が死んだとき、はじめて自分が有限であると気づいて、怖くて泣きわめいた」
そこまでなら、私でも理解できる話でした。そこで大抵の人は司祭から死後に待つ神の楽園の話を聞いて落ち着き、やがてそのことがどうでもよくなるのです。
ですが、あの人はそこからが「あの人らしく」なる違いでした。
「泣きながら思ったね。自分はなぜ人間として生まれたのか、どうして永遠なる神として生まれなかったのか? 不公平ではないか。とね」
その意見は、敬虔な信仰者である私を驚かすのに十分すぎるものでした。
曰く。神の存在は、なるほど認められるものかもしれない。だが人間が生きてしまった後を、神がわざわざ保証してくれる理由がどこにある? ……と。
そこからあの人は、始まりがありながら終わりのない存在。永遠を目指したのです。
「時の流れはなにもかもゆっくりと消してゆく」
涼しい風の吹き抜けるテラスで、あの人はそう言いました。時間が経つとどんなものでも無くなっていく。木も、石も、大地も。そしてきっと海と空も。消えた分だけまた新しいものがどこかから生まれてくるかもしれない。でもそれは永遠じゃない。
その言葉を友人が続けます。
「そのとおり。だから時間の流れる世界では永遠は無く、求めるのなら世界の外。しかし外がない最大単位だからこそ『世界』の名が付いているわけであり外は無い。よって、永遠は絶対に存在しない」
すました顔で言う友人に、あの人は少し興奮気味に反論します。
「いや、だがしかし、その影響を受けないことができるはずだ。君は永遠が存在しないというが、それなら僕は『絶対』は存在しないと言おう。だから永遠はどこかにきっとある」
その議論はいつもと同じように、お互いの意見の矛盾を見つけて指摘しあうという変わらないものでした。いままでのように語り合い、お茶を飲み、笑顔で別れる。
ですが、別れる時にあの人は、自分で自分を納得させるかのようにこう呟いたのです。
「つまりは、時間からジャンプして逃げてしまえばいいのだな」
それからあの人は、カギをかけた自分の部屋の中で考え込むという日課が加わりました。間違いなく、ウサギのように飛び跳ねて時間から離れようとしていたのでしょう。
唯一の友人とも、前より会うことが少なくなりました。会っても議論を戦わせることなく、ただの世間話をするだけで終わっていました。友人が冗談半分に「永遠はどうなった?」と聞くと、いつもの苦笑いで「糸口が見つかった。でもまだ完全になってはいない」と答えて、出来上がるまで見せないという、まるで子供みたいなことを言っていました。
あの人は私にこう語りました。
「この世界にいるかぎり、生まれて死んでゆくことは避けられない。でも、世界から出れば、いつまでも磨り減ることのない『永遠』が手に入るんだ」
その言葉に私は不安を感じました。全てが生まれて死に、そしてまた生まれるこの世界。ここから出ることを本気で検討するなど、まるで異国の異教のような、神への挑戦に思えたのです。
そしてそれが、あの人が喋った最後の言葉になりました。
ある日の朝、私はあの人の声を聞いたような気がして目を覚ましました。昨晩あの人は部屋から出てくることなく、当然今もそばにはいません。ですが私はたしかに聞きました。どこからともなく叫ぶあの人の声を。
あの人の部屋の前に立ち、施錠された扉を控えめにノックします。思ったとおりに返事がありません。いつもならば嫌がることでしょうが、合鍵を使って扉を開けました。そこには、机に伏せているあの人がいました。息の無い、冷たい体の。
医者はそれを診て、原因不明の突然死と診断しました。そんな判断ならば私にだってできます。
葬儀が行われたとき、彼の数少ない知り合いの一人が「永遠を夢とした故人は、まさにいま永遠の楽園から手を振ってくれているだろう」などと語っていました。
それを聞いた私と友人は、まるで彼が乗り移ったかのような苦笑いを浮かべてしまったのです。
あの人は、そんな月並みなことを求めていたわけではありません。もしそうであったのならば、もっと普通の幸せを感じ取ることができたでしょう。
葬儀が終わり、あの人が完全にいなくなってしまったとき、私とあの人の友人との関係も消えました。私達は帰り道で手を振って別れたあと、お互いにもう二度と会うことはないだろうと考えていたはずです。だって、あの人は死んでしまったのですから。
――それからしばらくもしないうちに、その友人と話すことになりました。向こうから真剣な顔をして、私に会いに来たのです。
まるで少し昔のように、お茶を前にしながら彼はこう言いました。
「あいつは永遠を手に入れたんだ」
一瞬、なにをわざわざ葬儀と同じことを言いにきたのだ。と思いました。ですが、そうではなかったのです。
「永遠となるためには、この世界から、時間から逃げ出さなくてはいけない。そう考えたあいつは必死にその方法を探していた。それは出来ないことのはずだった。だがもし出来るとしたら、どうだ?」
唐突すぎる仮定でした。いつも二人の話を横で聞いていてもわからなかった私には、少々荷の重い相手です。ですが彼は気にせず続けました。
「時間から逃げるというのは、時間が止まるとかそんなレベルのものじゃない。時間そのものがなくなるんだ。それがいったいなにかといえば、これだ」
そう言って彼は一冊の分厚い本を取り出しました。それは歴史の本、今は亡き王国の興亡史でした。彼はページをパラパラとめくりながら話を続けます。
「この本の中にはたしかに時間が流れている。だが俺達はその時間の流れはない。それと同じ現象として、あいつは時間から関わりがなくなったんだ」
そこまでの説明でなんとなく悟り、私は不安げに尋ね返しました。
「……ようするに。あの人は世界を本にしてしまったのですか?すると今は?」
「世界を読んでいるだろう」
「将来は?」
「世界を読んでいるだろう。永遠にな。もっとも偉大にして、もっとも無力な神になったというわけだ」
つまりは、あの人は時間の流れから抜け出たのです。そして世界の、時間の外側で、私達の過去と現在と未来をじっと見続けているというのです。
ですが、一つ疑問があります。
「なぜ、あなたはそう考え……いえ、『確信』しているのですか?」
彼は、なぜか少し、自慢げに答えました。
「いや……な。このまえ寝床で休んでいるときに、どこからともなく想ったわけだよ『ここから出られない。ずっと出られない。世界は一瞬で終わってしまう。でも終わらない』ってな」
「…………」
「それで、これはあいつの声じゃないかって考えたんだよ。そしてよく思い出してみると、この想いはずっと過去にも経験したなって。……だからさ」
言い終わり、彼は自分のお茶を一口飲みました。私はお茶に手をつけないまま立ち上がり、そっけなく別れの言葉を口にして立ち去りました。彼は少し驚いたような顔で見つめてきましたが、そんなことはどうでもいいことです。
なんと言おうと、あの人は結局死んだのです。それ以外に言いようがありません。ずっと同じことしか感じられないのであれば、死とどれほどの違いがあるでしょうか?
あんなにも欲しがっていた永遠は、あの人のすぐ身近にあったのです。でも、それが本当に欲しいものだったのでしょうか?
……そう。心をからっぽにして、どこでもないところに耳を澄ませば、いつでもだれでも聞こえるかもしれません。逃げられないあの人の叫びが。
そのことに気づいた瞬間、永遠という欲しいけど欲しくないものを強く想います。
そして無邪気な子供のようにそれを欲しがっていた、かつてのあの人の笑顔を思い浮かべて、そのとき自分の頬を流れる涙に気づくのです。
2003/03/03 掲載
|