チューリングの姫君





 冬の日は早く沈み、いまだ7時前だというのに街は暗く、オレンジの街灯光で満たされるようになる。空は晴れ渡っているが気温は低く、風が吹くたびに粉雪が舞い散る。
 賑やかに飾り付けられた建物にレンガの歩道。西洋風の町並みを気取っているのか知らないが、レンガで敷き詰められた街路は今日みたいな日には非常に困る。吹きすさぶ粉雪が薄く積もり、とても滑りやすくなってしまうのだ。
「まったく……なぁ?」
 誰にともなく呟いてみる。粉雪の2月14日、バレンタインデーとも呼ばれる日だ。なのに僕はこうして一人で、白くコーティングされた歩道に足跡をつけている。
 そんなに淋しいのならば、外に出なければ良かったのだ。高校のときならともかく、大学は今は休みなので、なにもなかったふりをして閉じこもっていられる。でも、街があまりに楽しげなので、ついふらふらと迷い出てしまった。なんて愚かさ。
 これでもう少し賑やかな通りに出れば、カップルの姿を見かけることもできるかもしれない。仲良さげに腕を組み、軽やかな足取りで夕闇深まる街に向かって歩いたりしているのを。
 そこまで考えて、にがにがしい表情を浮かべてかぶりをふった。うらやましいか? ああ、うらやましいかもしれないな。というか素直にうらやましい。  今まで恋人がいなかったわけじゃない。でもなぜか、こういう特別な日に女性と二人きりで過ごした記憶はなかった。それはたまたまなのか、それともそのような時は避けられていたのか。
 考えれば考えるほど空しくなってきたのでやめた。
 少し疲れて足を止め、横手のレンガ作りの建物にもたれかかる。冬の冷気が壁越しにじんわりと伝わって心地よい。
 ふと頭を上げると、空には星が輝き始めていた。青を深めていく中で、1つまた1つと自分の存在を表してゆく星。風が吹くと屋根の上の粉雪が飛ばされ、砂糖みたいに細かい白が、街灯に照らされながらゆっくりと落ちてくる。
 綺麗だな、こういうのも。
 ぼんやりと見つめつづける。もしかしたらこういうのは、一人の時でなければ見つけられないものなのかもしれない。そう思えばこの孤独もさほど悪くはないかもしれないな。
 ……なわけねーだろ。
 なんだかんだいったって、孤独は人間とは相性が悪いのだ。人は群れを作る生き物、孤高を愛するのはごく限られた突然変異種だ。
 だから僕もこうやって、雪と星の美しさを眺めているものの、心のどこかでは一人を嫌って、自分にかけられる声を待っている。
「そんなものを見ていて楽しい?」
 そう、こんなふうに…………えっ?
 少し慌てながら声の方向を見れば、そこには白と黒が立っていた。
 いや、それは目の錯覚だ。そこに立っていたのは若い女性、歳は20少し前くらいだろうか?
 だが、白と黒というのも間違いではない。その肌は日本人離れした白さだが、髪は日本人形のような腰まである漆黒の直毛。真っ白いドレスの上から黒いコートを羽織っていた。白黒に見えたのも無理はないだろう。
 一般人離れしたその容姿に戸惑っている僕が面白いのか、彼女はクスクスと笑いながら、もう一度繰り返した。
「そんなものを見ていて、楽しいの?」
 それは何を言いたいのだろうか。さして珍しくない星空と雪を眺めている僕が珍しいのか。それとも、こんな日に一人で寂しく宙を見上げていることを笑っているのか。
 どちらだったとしても、それはとても悲しく腹立たしい。僕は少し意地になって返答をした。
「『ここ』に面白くないものなんてないよ」
 軽く周りを見回しながら答える。ちらと見た彼女の表情はやけに明るく、こちらをからかっているかのようだった。その白く細い足の先の硬く黒いブーツで、レンガ道を叩きながらステップを踏むようにこちらへと向かってくる。
 彼女は僕の前で立ち止まり、ずいと顔をこちらの顔に近づけてきた。あまりに距離が近く、僕は少しだけひるむ。
「するとなにもかもが等価で無意味ということですか? ミスター・ペシミスト」
「それは逆だ。受け取り方次第でどうとでもなるということさ」
 負けずに言い返す。しかし彼女もこんな日に暇人相手に問答をするということは、まったくやることがないのだろうか?
「ところで君は?」
 聞くと彼女はにっこり微笑んで返事をした。
「チューリング」
 チューリング? どこかで聞いたような言葉だが、彼女はなにに対して答えたのだろうか。
「名前よ。チューリングっていう」
 そうか、名前。もっとも単純だった。それが本名だとすると、純粋な日本人ではないのだろう。そういえば肌の色も、明らかに白すぎるような気がしていた。
「ちゆ、だからチューリングね」
「……はぁ? ちゆ?」
「そう、バーチャルアイドルとネットアイドルのあいの……いたっ!」
 反射的に目の前の頭にチョップを食らわせた。ボケにはツッコミを。
 まあ、つまりチューリングってのは単なるあだ名ってことか。そう思うと、彼女の肌もファンデーションかなにかを塗っているかのように思えてきた。
もっとも「ちゆ」なんて名前もあまり聞かない。智由、などとでも書くのだろうか。
 ちょっと疲れた感じで、彼女――チューリングに向き直る。
「んで? ミズ・チューリング。もうすぐ夜になるけど、なにをやっているんですか?」
「ミズって言わない。ミス、ね。ミスター・アンチ・ペシミスト」
「その呼び方はやめようね。僕の名前は伊賀崎だ」
「イガサキ。まるで苗字みたいな名前ね」
「いや、苗字だって。名前は正人だよ。フルネームで伊賀崎正人」
「マサトね、うん、悪くない」
 なにが悪くないのか。悪い名前っていうのもわからないが。
「それでマサト、このビューティフルワールドは堪能できましたか?」
 チューリングは大げさなしぐさで辺りを見回す。まさか本気でそう思っているわけじゃないだろう。けっこうな皮肉屋だ。
「余計なお世話だ。君だってこんな日に一人で暇そうにしてるだろう」
「こんな日? ……ああ、バレンタインデーね。くだらない」
 そう言って大げさにため息をつく。どうやら芝居臭い動作が好きなようだ。
「365日のうちの一日に意味を見出すなんてねぇ。たとえばマサト、昨日も特別な日だったんだけど、知ってる?」
 2月13日? その日になにかあっただろうか。
「この私の誕生日よ」
 知るか、そんなもん。
「すっごく大事な日なんだけどなぁ。まあ、大半の人にはなんでもない一日なのよ。それと同じように今日という日も、たとえばイスラム圏の人にとってはただの平日。だから、バレンタインデーに無関係なあなたが、今日を特別だと思うのはおかしいと思わない?」
 そう言って、ダンサーのようにくるくると回転する。まあ、たしかに彼女の言う通りではあるんだけど、それにしても皮肉が好きな女性だ。
「……と、いうわけで! この日に意味を持たせるために、ちょっと私と一緒にそこらへん歩かない?」
 …………へ?
 なんだ。つまり結局これは、手の込んだナンパなのか。
 半ば呆れ気味の僕の手を、彼女は強引にとって歩きだした。こっちは許可もなにもしてないのに。
 不満気味の僕を見て、チューリングはニンマリと笑ってハッパをかけた。
「なに、こんな美人と歩けるのが嬉しくないの? ほら、笑う笑う!」
 まあ、たしかに彼女の容姿は平均以上かもしれない。
「ここには美しくないものなんてないんでしょ? ならその中でもとびきりな私と付き合ってもいいじゃないの」
 そう言ってチューリングはまた笑う。なんてわがままなお姫様だ。
 カツカツと、硬いブーツのリズミカルな靴音に引きずられて、にぎやかな通りに出る。そこはやっぱり予想のとおり、カップル達が腕などを組んで楽しそうに歩く街路だった。
 メインストリートは過剰な飾りつけと音楽、呼び声と人の波にあふれた、変わったお祭りになっていた。
 チューリングはやはりオーバーアクションで周囲を見渡した。実は人ごみが好きじゃないのか、たちまち表情を濁らせる。そして少し眉間にシワなどを寄せて、僕にささやいてきた。
「本当に、なにもかもが美しいと思うの?」
 そんな彼女を見て、僕はゆっくりと微笑んだ。芝居めいた彼女にふさわしい言葉を。
「見ているものが正しいだけだよ。チューリングの姫君」
 その言葉を聞いたチューリングは、ちょっと考え込んだようだった。
 僕も言ってしまった後、はたしてこの言葉は『どっちの意味なのか?』ということを疑問に思った。
 だが彼女はすぐに笑顔を浮かべて、僕を強引にひっぱりながら歩き始めた。
 粉雪星空賑やかな平日。隣に白と黒がいる僕は、確かに美しい中にいた。


2003/02/14 掲載





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