楽園への憧憬





 人は誰もが死ぬことを恐れる。とある青年もそうだった。彼は必ず死が来ることを思い悩み、自分の存在が有限であることを恨んだ。
 彼はその思いに苦しみ、ついには耐えられなくなり、普段は安息日くらいにしか行かない教会へと足を運び、司祭にその思いを告白した。
 司祭は彼の悩みを聞くと、おごそかな声でこう語った。
「死が終わりではありません。たとえ肉体が死んでしまっても、その中にある魂は不滅なのです。そしてその魂の将来は生前の行いによって決まります。生きている間に悪徳を行えば魂は罪に穢れて地獄に落ちますが、善徳を行えば清浄なる気に包まれて楽園へと導かれます。楽園で魂は永遠の幸福を手に入れるのです」
 彼はそれ以来、何回も司祭に楽園の話を聞きにいった。司祭は生きている者は誰も見たことのない世界を、まるで目の前に浮かび上がるかのように語った。
 そしてそれを聞きつづけた青年は、医者になった。彼はどんな悲惨な戦場へさえも赴き、どんな貧しい者にも救いの手を差し伸べて、自分は苦しい思いをしてでも他人の為に動きつづけた。そしてなんのみかえりも求めず、悪い遊びにはまったく手をだそうとしなかった。
 いつしか彼は、多くの人々から聖人のように崇められた。みなが彼を褒め称えた。ある人は豪華な贈り物をしようとしたが、彼はその申し出を微笑みながら丁寧に断った。人々はそれをみて、彼への尊敬をさらに深めたが、彼の瞳にある『さらなる高き物を望む気持ち』に気づいたものは誰もいなかった。
 そして月日が流れた。かつての青年は老いて病に倒れ、かつて恐れていた死の淵にあった。だが彼の目には恐怖はなかった。
「いままで生きていて、ずっと善徳を積みつづけたのだ。今まで多くの人が為し得なかったほどに」
 それを思い、これから赴く楽園のことを考えれば、自然に微笑がこぼれる。もはや恐れることなど何もなかった。
 ふと彼は、自分がこのように生きるきっかけとなった司祭のことを思い出した。
 あの司祭ももう死んでしまっただろう。彼は楽園に行けたのだろうか?
 ふと心にわいた疑問。だがその間にも彼の意識は指先から闇へと呑まれていく。それはあまりに冷たく、楽園への入り口とはまったく思えなかった。
 これは……おかしくはないか?
 彼は不安に包まれたが、その先を続ける暇もなく死は意識を取り込んだ。



「……彼には悪いことをしてしまったな」
 彼の魂は滅んでしまった肉体から抜け出て、最初にそうつぶやいた。
「まさかあそこまでしてくれるとは。いくら感謝しても足りないな。だが、最後まで彼が勘違いしていたのがかわいそうだ」
 1人でそうつぶやく彼の魂に、どこからか清浄な気をまとった魂が近づいてきた。
「やあ!ようこそ、生きてしまったあとに。君もずいぶんと善徳を積んだようだな。これなら楽園へと入るのに申し分無い」
「あ、あなたはあの時の司祭様ではないですか」
「君がこれほどするとは思わなかった。実に素晴らしい!」
「しかし、彼があまりにかわいそうです。彼はあなたの言葉を信じて、楽園へいくためにあれほどの努力をしたのに」
「おいおい、あれは私じゃなくて、私の肉体が言ったことだよ。……それに嘘は言ってないだろう? 確かに『魂は不滅だ』とは言ったが、『君の自我も魂から来ている』なんて言っていないじゃないか」
「ああ、でもあんなに努力をした肉体である彼が死の闇に呑み込まれて、努力をじっと見ていただけの魂の私が楽園に行けるとは!」


2002/06/10 掲載





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