生きてしまったあとに





 陰鬱な雨は音を立てて降りそそいで屋根を叩き、この部屋の天井の亀裂から侵入してリズミカルな雨だれの音を響かせる。あちこちをびしょ濡れにしているが、恐ろしい静寂を作らないだけいいと言えるだろうか。とくに、明かり1つない薄暗いこの部屋では。
 ここは管理最悪の廃虚、だが屋根があるという一点だけでも評価すべきだろう。床一面に転がる多様な種類の破片にはあえて目をつぶって。
 ベッドが2つ。かろうじて「並べている」という意図が見える程度に置かれている。クッションは無くなり、あちこちからスプリングが飛び出しているその上からいいかげんにボロ布をかぶせたものだが、このガレキの部屋ではまだましなほうだと言えた。
 それぞれのベッドの上には、息も絶え絶えの男が横たわっている。体中に血に染まった包帯が巻かれ、ちょっと見たところでは生きているようには思えないが、2人ともにその荒い呼吸が自分の生存を必死に主張していた。
 彼らはお互いに向かい合うような体勢で寝ている。それぞれの表情を見ながらなにを考えているのか、それはわからないが。
 そのとき突然、外から爆発音が響いた。かなり大きい。だがベッドの2人はまったく反応することがない。動く体力がないということもあるのだろうが、それよりはもうこの状況に慣れてしまったのだろう。
 陰鬱な雨音は屋内でくぐもった音となり、暗い部屋をさらに暗くする。雨だれの音も不吉さを感じさせるだけだ。

 そうして夜になった。雨はいつのまにかやんで、静けさがあたりを包む。外からは虫の声1つ聞こえず、中からも衣擦れさえ聞こえない。
「……なあ」
 無音の恐怖に耐えかねるように、どちらからともなくもう一方に声をかけた。身を起こす事さえもしないが。
「お前さぁ、いままで生きてきて『死ぬこと』ってどう思っていた?」
 それにたいして、かすれた声で返事が返る。
「それは、死ぬという事実にたいしてか?それとも、死んだ後のことか?」
「ああ、いや。そうだな、両方だ」
 しばらく沈黙が続く。答を考えているのか、答えることを考えているのか。やがて唐突に返答がきた。
「――俺が6つくらいのときだったかな、初めて人とは死ぬものだということを知ったのは」
 昔を思い出しているのか、彼の表情はとても穏やかだった。
「それを知ったときは、怖いだけじゃなく、とてつもない不満を感じた」
「不満だって?」
「そう、不満・不服・不条理……。すべてに終わりがあると言う事実そのものが許せなかった。みんなすべてが永遠を享受して、ずっと同じ世界が続いて行く。そう思っていたんだ」
「ふうん。ならオレとは違うな」
「じゃあ、あんたはどうだったんだ?」
「オレか? オレは死ぬと言うことは全然怖いとも思っていなかった。初めて聞かされたときにも、ごく当たり前のことに感じたよ。それからずっと、死を怖れずに生きていた。……だが、今にして思えば、それは死の実感がなかっただけなんだろうな」
「でもそれは羨ましいな。いつも死の恐怖に悩まされていた俺からすれば」
「いや、そっちのほうがいいかもしれんよ。常に恐怖を感じていれば、いざ本番になっても慣れたもんだろう?」
「そうでもないさ」
 そう言い合い、2人は声を合わせて低く笑う。はるか彼方からまた1つ爆発音が聞こえてきた。
「じゃあ、次は死んだ後のことだ。魂の永遠なんかを信じていたクチかい?」
「ああ、だがちょっと違うな。俺は死んだらまた生まれた時からやり直すものだと思っていた」
「へっ? また同じ人生をかい?」
「そう。そして『なんでこの時にこんな選択をしてしまったんだろう』と後悔していることをすべてやり直せる。そんな死後を望んでいた」
「――で、そしてまた死んだらどうなるんだい?」
「やり直した人生でも、またやり残したことがある。それをまた次の人生ではやり直せる。そしてその時上手くいかなくても、またその次には……。そしていつか完全な人生を送ることができて、そのとき完全な世界が現出する」
「たった1つの時代を完全にするためだけの存在意義か。ある意味最悪のユートピアだな」
「ああ、有限なる無限だよ。世界がこんな風だったら、きっとそれはとても素晴らしくて、恐ろしいものなんだろうな。でも俺はそれに憧れていた」
「オレにとっちゃ恐怖以外の何物でもないがね、それは」
「ははっ。……さて、じゃああんたは?」
 問われた男はしばし黙り、そしてゆっくりと詩を詠むかのように語り始めた。
「死んだら心はバラバラになって、この世界に溶ける。オレは世界全体に薄く薄く広がり、これから生きてゆく命たちを見守りながら、ゆっくりのんびりとできる。そんな死後が理想だったな」
 無音が訪れた。語られた男はその言葉の意味をゆっくりと考え、語った男はそれを待つ。やがて拍子抜けしたかのような声が返ってきた。
「……なんだ、それは神になりたいということじゃないか」
「そうかもな。……そうだったんだろうなぁ」
 二人はまた笑った。どこか遠くから人の足音が聞こえてきたが、彼らはそれに気をとめなかった。
「あんたには死んだら悲しむ人はいるのか?」
「ああ、何人かはいるな。だけどまあ、よくて2年だな。悲しんでくれるのは。その後は、オレは思い出の中で、そいつらは死を忘れて幸せに暮らすんだろうな。ハッ!」
「怒らせてしまったか? すまない」
「いや、いいんだよ。あんたにはオレと違って、生きて帰らなければいけない人がいるんだろう?」
 その問いを投げかけられた男は、しばし目を閉じて考えたあとに、ゆっくりと首を横に振った。
「どうしても帰らなければいけない人はいないな。……少し前までは、かならず帰らなくてはいけないと思っていたが、いまこうなってみて考えてみれば、だれもかれも俺が帰らなくても困るだろうが、死ぬわけじゃない。しばらく生活は苦しいだろうが、やがては普通の暮らしを送るようになるんだろうな。俺なんかいなかったみたいに」
 そこまで話したところで、お互い共に黙りあった。
今まで生きていたこと。自分の記憶にあるすべてを反芻しているかのようだった。
「なんだ。お前、泣いているのか?」
 唐突に一方がそう尋ねる。
「あんただって、涙がボロボロでているぞ?」
 もう片方も、言い返す。
 どちらともなく、深呼吸の音が聞こえた。そしてゆっくり、丁寧に言葉が紡がれる。
「オレはさぁ、こんな世界だけど、生まれてきたことに本当に感謝している。オレの周りに居てくれた人達すべてに感謝している。……そして、こんなふうに死ぬことも恨まない。もし死のシステムがオレの思った通りだったら、オレは世界に溶け込んで、生きているものみんなを見守るよ。」
「ああ、俺もそうだ。今まで生きてきたということに心から感謝しているし、いろんなところで失敗を続けて他人に迷惑をかけた自分を申し訳なく思う。もしまた同じ人生をやりなおすのが死だというのなら、次はもっと上手く生きて、だれもかれもと幸せに暮らしたいな」
 男達はそう言って微笑を浮かべた。その表情はこの荒れた部屋には似つかわしくない。とても綺麗なものだった。

 と、その時に彼らも気づいた。この部屋に近づいてくるはっきりとした足音を。それは力強く。健康である人間しか立て得ないものだった。
 そして部屋のドアが大きな音を立てて開いた。
「おい、だれかいるのか? 俺は救援部隊員だ。助けに来たんだぞ!」
 そう叫んで部屋に入ってきたのは、まだ若い青年だった。彼は部屋をぐるりと見回し、ベッドの上に横たわっている2人を見て目を止めたが――しばらく見つめたあと、「手遅れか」と力なくつぶやき、肩を落として部屋から出て行った。
 残された二人は、しばらく狐につままれたような表情を浮かべていたが、ふと足元に横たわる自分たちの身体に気づいた。
 生きてしまったあとの二人は、同時に苦笑いを浮かべた。


2002/03/20 掲載





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