前回までのあらすじ
私ことえぬじぃは、リンゴが食べたい犬のサイコキネシスによって腕の骨を折ってしまった。
慌てて病院に担ぎ込まれたものの、ヤブな医者ばかりに当たり、酷い目に会いながらも入院することに。
さて、入院です。
けして金持ちではない私は、もちろん相部屋で入院することになります。二人部屋なのでまあまあの環境です。
その部屋には先客がいました。足の骨を折ってリハビリを続けている20代後半の男性です。
これからしばらく共に寝起きするので、良好な関係を築きたい。そう考え、第一印象よいようにと元気良く挨拶をしました。それに彼も笑顔で答えてくれました。
ですが、二人の関係はひどく悪いものとなってしまいました。
原因は、同室の彼が夜更かし気味の人だったということです。いや、世間一般からみれば、私が早起きすぎるのかもしれません。
入院中、私は午前6時起床で午後9時睡眠。一方同室の彼は、午後12時頃就寝で午前7時半起床。しかもお昼に1時間ほど昼寝をします。
これがいけませんでした。なぜなら当時の私には、笑っていいともを欠かさず見るという習慣があったのです。
娯楽の少ない入院生活。好きなTV番組はなにより欠かせぬものなのです。
そして他に楽しみもないので、どうもちょっとしたネタで笑いやすくなっています。だいたい笑っていいとも一回で、10回前後は爆笑していた記憶があります。
当然のことながら、その笑い声は同室の彼の午睡を妨害します。
人間、睡眠を邪魔されるのはとても不快なものです。彼の表情がどんどん険しいものとなってきました。
私もそのことに気付き、笑っていいとも中はマクラを噛むなどの対策をしましたが、かえって「んふぃっひっひょふぃひょ!」などの奇怪な声が漏れ、同室の彼の神経をさらにささくれださせます。
しばらくすると彼は、慣れたのかあるいは耳栓を買ったのか、午睡中に不機嫌そうな顔で起きてくることもなくなりました。しかしそのときには、二人の仲は決定的に悪いものとなっていたのです。
もう修復できない隣人との関係も心苦しいですが、ほかにも嫌なのが点滴です。別に内科系の障害はないというのに、毎日のように点滴をされます。
この点滴というのは数百ml入りパックの中の薬剤を体内に注入するものですが、ゆっくりと入れるものですからとにかく時間がかかります。だいたい1パックにつき、1時間弱はかかってるでしょうか? それを連続で2パックも注入されたりします。
その間、もちろん腕は動かせませんし、基本的にはベッドに横たわらなくてはいけません。
しかも左腕を骨折したので、逆の右腕から点滴するものですから両腕が封じられています。本を読むことさえできません。
最初にテレビをつけてもらっても、途中で面白くなったときにチャンネルを変えることだってできないのです。なにかの拷問のような気がしてきます。
さて、そんなわけで点滴を打ちながボーっとしていると、いつのまにやらパックの残量がほとんどなくなって来ました。
普段は少なくなってきたあたりで看護婦さんを呼ぶのですが、今回はボーっとしていたために遅れたのです。
ナースコールをしますが、なかなか来ません。見ているうちにパックは空になり、腕に繋がれたチューブの中をズンズンと空気が進んできます。
「空気入る! 空気入って死ぬ!」
よくドラマのミステリーなどでは、血管に空気が入ると死ぬと言われてます。
実際はそう簡単には死なないとも聞きますが、戦時中の船で治療できないほどの重傷者がでたとき、最初はモルヒネを打ってるのですがそれがなくなると空気を注入して楽にしてやったという記録を読んだことがあります。なので、死ぬことは間違いないでしょう。
そう考えて大慌てしていると、看護婦さんがゆったりと笑顔を浮かべてやってきました。
「空気空気! 空気入ってます!」
狼狽する私に、看護婦さんはなんでもないことのように微笑んでもう1つの点滴パックを取り出しました。
「はい、大丈夫ですよー。今日はあと1つで終わりですからねー」
にこやかに点滴パックを取り替える看護婦さん。
ですが、さっきまで使っていたチューブにそのまま新しい点滴パックをつけたのです。当然、入った空気をそのままに。
補充された点滴液に押されて、チューブ内の空気はゆっくりと私の血管へと入っていきます。
「空気入ってます! 死ぬ、死んじゃう! これじゃ死にマス!」
あまり病院内で口にしてはいけない単語を連呼する私。
「心配いりませんよー。この位の量の空気なら影響ないですからー」
あくまでにこやかに語る看護婦さん。その言葉と笑顔で、私は落ち着きを取り戻しました。
「あ、そうなんですか。じゃあ、どのくらい入ったらまずいんですか?」
「えーと、このくらい入ったら危ないですね」
そう言って、チューブのここからここまで、と指で示しました。
あのー……
その半分くらいは、入っちゃったんですが。
気の休まる暇も無い数日が過ぎて、ようやく左腕の手術が行われることになりました。
お医者さんが「全身麻酔と局部麻酔、選べる2つの手術コース」と提案したので、迷わず私は「未プレイの全身麻酔コースを!」と選択したのです。
※注:実際の会話とは多少異なります
そして手術が行われました。ドラマなどでみるように、キャスターがついてガラガラと移動するベッドに横たえられて運ばれていきます。全身麻酔はガスを使うのか、吸入マスクをかぶせられました。
シュゴー、というダースベーダー的な音と共にガスが流れ込んできますが、ゆっくりそれを呼吸してもぜんぜん眠くなる様子がありません。
そうしていると「点滴はいりまーす」との声がしました。ああ、またあの嫌な点滴かあ、と思ってそちらを見やると。
いつもの倍近いサイズの点滴針です。爪楊枝くらいの大きさです。
いやちょっと待って、それは無理だ。などと思っているのにも構わず、腕に爪楊枝サイズのものが突き刺されました。
激痛ののち、普段より大量の薬剤が流れ込んでくるのがわかります。
そして「血圧はかりまーす」との声で、血圧計が腕に巻かれました。
さて、ここでわかると思うのですが、左腕の切開をするために点滴は右腕で行っています。さらに血圧を測るバンドも、右腕に巻かれます。
血圧計は一般家庭にあるもののように、空気で膨らんで腕を圧迫して血流を止め、脈を計るものです。しかしそれを、大量の薬剤を点滴されている腕で行うとどうなるか。
ブシューと膨らむ血圧計バンド、止まらず流し込まれる点滴。
腕が破裂するんじゃないかという膨張感です。
あまりの激痛に『早く楽にしてくれ!』と心で叫び、一刻も早く麻酔の効果を出そうと、連続して深呼吸をはじめました。
と、目の前が急に真っ暗になりました。
気がつくと、いつもの病室のベッドに横たわり、酸素を吸入していました。
そのとき初めて知りました。全身麻酔とは眠らせるものではなく、気絶させるためのものなのです。
意識を回復したときも、普通の目覚めのような爽快感はなく、鈍い痛みのする頭でしばらくはダルい感覚に居座られ続けます。後に実感しましたが、ちょうど二日酔いの気分と同じです。
二度と全身麻酔はしないと、そのとき誓いました。なにに誓ったのかはさだかではありませんが。
手術は割れた骨の破片を取り除き、残った骨を針金で繋いで自然修復を待つ、というものでした。
骨がずれないように左腕の肘から先がすべて石膏で固定され、針金は抜くときに切開をしなくてもいいようにと皮膚からわずかに露出させてました。気分はサイボーグです。
「みょいーん、みょいーん。……いててててっ!」
「あんまり動かさないで、固定しててください」
ふざけていたら看護婦さんに叱られました。
しかたがないので、左腕を吊った姿勢で安静にしていました。
数日が経ったとき、ふと左腕を動かそうとしたらあることに気付きました。
肘が伸びないのです。角度でいえば120°以上には開きません。
「看護婦さん! 手術ミスで腕が伸びなくなった!」
あまり病院では叫んではいけない言葉を口にする私。それに対して看護婦さんは、そっけない態度で対応しました。
「ずっと伸ばしてなかったから、筋が固まっただけですよ。ちょっとずつ伸ばしていく訓練をすれば直ります。
アンタ、動かさないでって言ったじゃん!
泣き言を漏らしたいところですが、細かい加減が指示されてなかったので責任を押し付けることもできません。
それからしばらくのあいだ、私は左腕の角度を伸ばすリハビリに専念したのです。なんかやりすぎて左腕だけは180°よりも開くようになってしまいましたが(男性は普通、肘は180°以上は開かない)。
こうして、なんとか退院することができました。
ですが左腕は固められたままです。失った骨がちゃんと再生するまでには2ヶ月ほどかかるためです。
それまではずっとギブスをつけたまま、電車やバスの「お年寄りや体の不自由な人専用」シートに堂々と座るという役得を得たのです。
私のような人間に、あまり多くの権利を与えてはいけないみたいです。
そして二ヵ月後、無事にギブスを外して針金を抜く日がやってきました。
しかしギブスを外すといいましても、着脱式の構造ではなく、単純に石膏で固めてあるだけのものです。ではどうやって外すのでしょうか。
お医者さんは奥から、回転ノコギリを持ち出してきました。
といいましても手の平よりも小さいサイズのものですが、それでギブスを切り開くというのだからスリルがあります。石膏ギブスのすぐ下には、あまり空間もあけずに私の腕があるのです。ちょっとしたミスで真紅の花が咲くことになります。
「大丈夫だって、石膏の厚さはちゃんとわかってるんだから」とお医者さんは言いますが、歯医者のドリルを遥かに上回る轟音を立てる機械が自分の腕に突きつけられている。これはかなりの不安です。
無事にギブスを外しましたが、まだ腕には針金が刺さったままです。これをどうやって抜くのでしょうか?
お医者さんは、なんの変哲も無い普通のペンチを持ち出してきました。
「いや、そんなので抜いたら痛いじゃないですか!」
「大丈夫だって、たっぷり麻酔を打つから」
抗議する私に対して、おおげさだといなすお医者さん。数本の注射が打たれ、左腕は付け根のところまで痺れて感覚がなくなりました。
「さーて、じゃあ抜くか」
ペンチで針金をつまみ、引っ張りながらゆっくりと抜いていきます。
「――――――っ!!」
私は叫びだしたいのをこらえてました。
たしかに、痛覚は麻痺しています。痛みはまったくありません。
しかし骨の中に通っている針金を抜く感覚、それは骨を伝わってちゃんと感じられるのです。それはものすごい嫌な感覚でした。
この感触を体験するには、針金や割り箸を奥歯で噛んで固定したものを、手で掴んでゆっくりと引き抜いていく感触が最も近いです。
しかも腕に通された針金は、30cm近い長さがあったために、その感覚も長く続いたのです。
それからというものの私は、うっかり割り箸を噛んでしまうたびにあの感覚を思い出して、ゲンナリとした気分になってしまうのです。
そして、犬を見るたびに「もしやエスパー犬!?」などと不必要な警戒をするようになりました。
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